倫理学概論 II 第12回
実践上の注意〜ケア倫理学

●Milton Mayeroff, "On Caring," The International Philosophical Quarterly, September 1965.
(下記On Caringに再録。下記邦訳付録Ⅰ、pp.183-215。以下引用は邦訳による)
「私がいま考えている活動とはいかなるものかというと、これは、父親が子供を最も重要な意味でケアしている——つまり、その子供が成長し、自己実現するのをたすけている父親の活動のようなものであるといってよい。[中略]この論文を通して私が心に描いているある特定の例は、わが子をケアする父親なのであるが、[後略]」(p.184)
★メイヤロフは子供に対する父親=男親のケアを典型としている

●M. Mayeroff, On Caring, Harper, 1971.
(田村真・向野宜之訳『ケアの本質——生きることの意味』ゆみる出版、2006年。以下引用は邦訳による。強調は原文ではイタリック、訳文では傍点)
「一人の人格をケアするとは、最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現することをたすけることである。たとえば、わが子をケアする父親を考えてみよう。[中略]ケアすることは、自分の種々の欲求を満たすために、他人を単に利用するのとは正反対のことである。[中略]相手が成長し、自己実現することをたすけることとしてのケアは、ひとつの過程であり、展開を内にはらみつつ人に関与するあり方であり、それはちょうど、相互信頼と、深まり質的に変わっていく関係とをとおして、時とともに友情が成熟していくのと同様に成長するものなのである。[中略]
 一人の人間の生涯の中で考えた場合、ケアすることは、ケアすることを中心として彼の他の諸価値と諸活動を位置づける働きをしている。彼のケアがあらゆるものと関係するがゆえに、その位置づけが総合的な意味を持つとき、彼の生涯には基本的な安定性が生まれる。[中略]この世界の中で私たちが心を安んじていられるという意味において、この人は心を安んじて生きているのである」(pp.13-14)
「ケアの相手が成長するのをたすけることとしてのケアの中で、私はケアする対象(一人の人格であったり、理想であったり、思いつきであったりする)を、私自身の延長のように身に感じとる。またそれと同時に、その対象が本来持っている権利ゆえに私が尊重する確かな存在として、私とは別のものとしてそれを身に感じとるのである」(p.18)
「私は他者を自分自身の延長と感じ考える。また、独立したものとして、成長する欲求を持っているものとして感じ考える。さらに私は、他者の発展が自分の幸福感と結びついていると感じつつ考える。そして、私自身が他者の成長のために必要とされていることを感じとる。私は他者の成長が持つ方向に導かれて、肯定的に、そして他者の必要に応じて専心的に応答する」(p.26)
「ケアにおいては、私は他人を直接的に知るのである」(p.36)
「結局ケアは、明確な知識と暗黙の知識、それを知っていること、それをどうするかを知っていること、そして直接的知識と間接的知識、これらのすべてを含んでいるものであり、それら全体は、他人の成長を援助するうえでさまざまに関係している」(p.37)
「ケアには、その相手が、自らに適したときに、適した方法で成長していくのを信頼(trust)することが含まれる」(p.50)
「ケアしていくうえで無私(selflessness)という要素が入ってくるが、これはパニックに出合ママって自分を見失ったり、他の人と協調していくうえで、ある程度他者と合一しているときに見られる無私とは全く異なっているのである」(p.68)
「他者が成長していくために私を必要とするというだけでなく、私も自分自身であるためには、ケアの対象たるべき他者を必要としているのである。[中略]私は、自分自身を実現するために相手の成長をたすけようと試みるのではなく、相手の成長をたすけること、そのことによってこそ私は自分自身を実現するのである」(pp.69-70)
「ケアするには、ときに特別な資質あるいは特殊な訓練を必要とする。すなわち、一般的なケアができるということのほかに、ある特定の対象に対してもケアできなければならない」(p.75)
「もし自分が相手のためにケアしようとするならば、その相手にふさわしい能力がなければならないし、また、その相手に対してケアができるだけの”力”をぜひともそなえなければならない」(pp.75-76)
「自分以外の人格をケアするには、私はその人とその人の世界を、まるで自分がその人になったように理解できなければならない。私は、その人の世界がその人にとってどのようなものであるか、その人は自分自身に関してどのような見方をしているかを、いわば、その人の目でもって見てとることができなければならない」(p.92)
「相手の気持になるといっても、私は自分自身を見失うわけではない。私は自分のアイデンティティを保っており、相手と相手の世界に対する自分自身の反応をよく意識している」(p.94)
「私は自分自身に無関心であったり、自分自身をまるで物体のように取り扱ったり、また自分自身に初めて会ったような気持を持つことがあるが、それと同様に、自分自身の中の成長しようという欲求にこたえて、自分自身をケアすることもある。私は、いわば自分自身の保護者となり、自分の人生に責任をとるのである。自分自身に対するケアということは、“ケアすること”という属(genus)の中の種(species)の一つなのである」(p.103)
「私たちは全面的・包括的なケアによって、私たちの生を秩序だてることを通じて、この世界で“場の中にいる(in-place)”のである。これは“自分にあわない場”から逃れ、自らの”場”を求めて”場の外にいる(out of place)”ことと対照をなすものであり、このとき、人は“場”に対して無関心、無感覚となっている。[中略]自らを”発見する”人が、自らを“創造する”ことについても大いに力をつくしたのと同様なやり方で、私たちは自分たちの場を発見し、つくり出していくのである」(pp.115-116)
「私のケアが、私が”場の中にいる”ことができるほど十分包括的なものであるとすれば、それらのケアは互いにある調和がとれており、そこに矛盾があってはならない」(pp.121-122)
「自分が”場の中にいる”ことができるほど十分包括的なケアについて、その対象となっているものを、私と”補充関係にある対象(appropriate others)”と呼ぶことにしよう。”補充関係にある”という言葉自体はもちろん重要なことではない。”自己完成する(fulfilling)”という言葉をそのかわりに用いてもよい」(p.124)
「私と補充関係にある対象を見い出し、その成長をたすけていくことをとおして、私は自己の生の意味を発見し創造していく。そして補充関係にある対象をケアすることにおいて、”場の中にいる”ことにおいて、私は私の生の意味を十全に生きるのである」(p.132)
「不動であり、一般的にその人の生き方と結びついている”場の中にいる”ということの中には、ある安定性がある。[中略]
 この安定性を基本的確実性(basic certainty)と表現したとしても、それで真実をつかんだとか確かな知識を持っているといえるわけではない。[中略]基本的な確実性というのは、岩にしがみついているような状態というよりも、世界に根をおろした状態というほうが当っている。こうした状態のおかげで、私は開かれた存在として他を受容できる状態にある」(pp.140-142)
「私と補充関係にある対象によって必要とされている、という事実からくる帰属感を深く身に感じとると、その経験は私を根底から支えるのである。これこそ基本的確実性の一要素なのである」(pp.143-144)
内面と外面との統合が、基本的確実性のもう一つの要素である」(p.144)
「混乱の要素を大かた排除することによって、私たちは基本的確実性の中に明澄性を発見する。ケアを中心として生を再創造することにより、私の生の中に単純化が生まれる。私のケアと相容れない多くの不適切なものが排除されると、私は自分自身が何者なのか、何をしようとしているかについて、根本的な明澄性を獲得するのである」(p.145)
「私が自己の生の意味を生きているとき、生きることの過程がそれ自体で十分なものと身にしみて感じられる」(p.149)
「私が自己の生の意味を生きているとき、自己の生の中へしだいに了解性(intelligibility)が浸透してくる。[中略]了解性とは、私の生活に関連しているものは何か、私が何のために生きているのか、いったい私は何者なのか、何をしようとしているのか、これらを抽象的なかたちではなく、毎日の実生活の中で理解していくことなのである」(p.154)
「自律(autonomy)ということは、私が自己の生の意味を生きることである」(p.161)
「信(faith)は狭義においても広義においても、”場の中にいる”ということの中に見出される」(p.172)
「信について、狭義の意味では、何者かに信をおく(faith in)ことである[中略]、一方、広義ではこれを、信のうちに(in faith)生きることだと言ってもよいであろう」(p.175)
「感謝(gratitude)は、”場の中にいる”ということから生ずる自然な発露である」(p.176)

●Carol Gilligan, In A Different Voice: Psychological Theory and Women's Development, Harvard University Press, 1982.
(岩男寿美子監訳、生田久美子・並木美智子共訳『もうひとつの声——男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』川島書店、1986年。以下引用は邦訳による)
「わたしは、もう十年以上も前から、人びとが道徳性について、また自己についてどのように語るのかに耳を傾けてきました。その試みを五年ほどつづけたとき、わたしは二つの『異なる声』がきこえてくるのに気がつきました。つまり、人びとが道徳について語るときの語り方に二通りあるということ、また他人と自己との関係を述べるときの述べ方に二通りあるということに気がついたのです」(まえがき、p.xi)
「わたしがこの本のなかで用いている『異なる声』ということばは、性[gender]のちがいによる『異なる声』という意味ではありません。むしろ、テーマのちがいからくる『異なる声』という意味にとっていただきたいと思います。実際のところ、『異なる声』と女性の声が密接に関係していることは、わたしたちの経験的な観察によって確かめられているものです。またわたし自身も、女性たちのいろいろな声をとおして、『異なる声』がどのように発達していくかを追跡をしていくつもりでいます。しかし、この両者の関係はけっして絶対的なものではありません。わたしはこの本のなかで、男女[either sex]の一般化された形態を示すために男女それぞれの声を比較するのではありません。むしろ、男女の声を比較することによって、その背後にある二通りの異なる考え方の相違を明らかにしたうえで、その相違をどのように解釈すべきかという問題に焦点をあてたいと考えているのです。またわたしは、人間の発達についての研究を進めていく道程で、同性のあいだにも相反する『異なる声』が聞こえるということ、しかもそれらが相互に作用しあっているということを指摘したいと考えています。[中略]ここでのわたしの主な関心は、人間の経験と思考が『異なる声』のなかで、また『異なる声』が聞こえてくる人びとの対話のなかでどのように作用しあっているかという点にあります。また、人間が自己の生活をどう語るか、他人と自分の声にどのように耳をかたむけているかということにあるのです」(同上、pp.xii-xiii)

「女性の発達を解釈していく上での、問題を生じさせているイメージの変化については、以下にあげる11歳の2人の子どもの道徳判断をみるとよくわかります」(p.39)
…その1人は男の子(ジェイク)、1人は女の子(エイミー)
「どちらも賢くて頭脳明晰であったし、少なくとも、11歳にしては野心的で、2人とも男女の役割に関するステレオタイプの安易なカテゴリー化には抵抗を示していました。たとえば、エイミーは科学者になる野心を持っていましたし、一方、ジェイクは数学よりも国語を好んでいたのです」(p.40)
 葛藤を含む事例(ハインツのジレンマ*)を提示しそれを解決していく論理を分析することで青年期の道徳性の発達を測定する**という、コールバーグの開発した方法を、2人は受けた。「道徳的思考の基礎となっている構造を明らかにするように設定された、ジレンマに関するさまざまな変数を変えたり広げたりしてつくられた一連の質問をとおして、盗みに同意するか、反対するかが問われ、またそれぞれの理由が調べられるのです」(p.40)
「11歳の男の子ジェイクは、最初から、ハインツはその薬を盗むべきだ、というはっきりした意見をもっていました。彼は、コールバーグの考えどおりに、そのジレンマは財産と生命とのあいだの価値観の葛藤の問題であるとして、生命に論理的な優越性を認めていました。彼は自分の選択を正当化するにあたってその論理を用いたのです」(p.41)
(「1つには、人間の命はお金よりも尊いからだよ。薬屋は千ドルもうけたって彼の暮らしはあまり変わらないでしょう。でも、もしハインツがその薬を盗らなかったら、ハインツの奥さんは死んじゃうじゃない」p.41)
「彼は道徳的ジレンマを『人間についての数学問題に類するもの』であると考えて、それを1つの方程式にくみたてて、その解をだす作業を進めるのです。ジェイクの考える解は合理的に導き出されるので、だれが道理をたどっても同じ結果にいきつくだろうし、このようにすれば、裁判官もまた、盗みがハインツのなすべき正しいことであると考えるであろう、と彼は仮定するのです。しかしジェイクは、同時に論理の限界をも知っています。道徳問題に正答があるかどうかをたずねられると、彼は、行為を左右するさまざまな変数は変化しやすく複雑なので、『判決だって正しいことも正しくないこともある』と答えるのです」(p.42)
「ジェイクの答えとは対照的に、エイミーのジレンマにたいする反応は、非常にちがった印象を私たちに与えます」(p.44)
(「そうねえ。ハインツは盗んじゃいけないと思うわ。ハインツは、そのお金を人に借りるとか、ローンなんかにするとか、もっと別の方法があるんじゃないかしら。ハインツは絶対その薬を盗んではいけないわ。でも、ハインツの奥さんも死なせてはいけないと思うし」p.44)
「なぜその薬を盗むべきでないのかとたずねられると、彼女は、財産でも法律でもなく、むしろ盗みをすることの、ハインツと彼の妻との関係に及ぼす影響を考慮した答え方をするのです」(p.44)
(「だって、もしハインツがその薬を盗んだら、たしかにそのときだけは奥さんを助けることができるわよね。でも、もしそうしたらハインツは監獄にいかなければならないかもしれないし、そうしたら奥さんは前よりも病気が重くなってしまうかもしれないわ。そうなったらハインツは、薬よりもだいじなものをなくしてしまうことになるじゃないの。こんなことはちっともよくないわ。だからハインツは人に事情を話して、薬を買うお金をつくるなにか別の方法をみつけるべきだと思うわ」pp.44-45)
「エイミーはこのようにジェイクとは異なり、ジレンマのなかに数学の問題ではなく人間に関する、時間を超えてひろがる人間関係の物語をみているのです。そして、妻が夫にたいしてもちつづける要求と、夫が妻にたいしてもちつづける心配を想像して、薬屋との関係を断つよりもむしろ維持する方法をとって、薬屋の要求にどう対応するかその方法をみつけることを勧めるのです。エイミーは、妻の生存をその人間関係の維持に結びつけていると同時に、人間関係の文脈のなかで妻の生命の価値を考慮しているのです」(p.45)
「エイミーは、世界というものを自立している人びとから成る世界というよりはむしろ、人間関係で成り立っている世界と考え、また規則のシステムで成り立っている世界というよりはむしろ、人間のつながりで成り立っている世界と考えているのです。それゆえに彼女は、ジレンマのなかにある問題は、薬屋がハインツの妻の要求に応えることをなおざりにしていることにあると考えるのです」(pp.46-47)
「ジェイクが、法律に『誤りがある』ことを考慮しているのと同様に、エイミーは、『世界はものをもっと多く分かつべきであって、そうすれば人間は盗みをはたらく必要はなくなるだろう』という信念をもっていて、このジレンマの話自体がおかしな話であるとみているのです。このように、どちらの子どもも他人の同意をもとめる必要性を認識してはいるのですが、それに至るのにそれぞれちがった方法を考えているのです」(p.47)
「コールバーグの道徳性の発達段階**に照らしてみると、エイミーの道徳判断は完全に男の子のそれよりも成熟度において一段階低いところにあるというようにみえます。つまり、第二、第三段階の混在した段階にあると評価されるのです」(p.48)
「しかし、エイミーの知っている世界とは、コールバーグによるハインツのジレンマの話にある屈折させられた世界とはちがったものなのです。エイミーの世界とは、人間関係と心理的な真実の世界であって、それは人びとのつながりを知ることが、おたがいにたいする責任の認識や、おたがいに応答しあう必要性の知覚をひき起こすような世界なのです」(p.49)
「エイミーのジレンマの解決法は、人との結びつきを断ち切るのではなくてむしろ強めることによって、つまりハインツの妻を取り巻く状況を改善するにあたって、コミュニケーションによるネットワークを活性化させることによって導かれてくるのです」(p.50)
「女性は一見したところ、男性の経験からひきだされる人間関係のカテゴリーには適合していないようにみえます。しかし、このことは同時に、破綻しやすい結びつきのイメージを、危険な分離のイメージと置き換えることによって、人間の発達を説明してきた人間関係についてのこれまでの仮定を、もう一度考えなおすことをうながしてもいるのです」(p.66)
「人は不平等や相互の結びつきの経験をとおして——この経験は親子関係では当たり前のこととなっていますが——正義と思いやりの倫理、人間関係の理想という問題を考えるようになるのです。それは、自分も他人も同等の価値をもつものとしてとりあつかわれ、力にちがいがあってもあらゆることが公正にはこばれなければならないという見方であります。そしてまた、だれもが、他人から応えてもらえ、仲間としてみなされて、だれひとり残されたり傷つけられたりしてはならない——という見方でもあるのです。これらの本質的に相違する見方は、たがいに緊張関係にありますが、人間の経験における逆説的な真実を映しだしてもいるのです」(p.109)

「一般には、判断と行動において自主的な主張ができることが一人前のおとなの証明であると考えられていますが、これまで女性が自らの判断基準としてきたのは、また女性が他人からの判断される際の基準であったのは、他人にたいする思いやりと配慮であったのです」(p.123)
 女性の発達の第1段階:自己中心性
(→社会参加→)第2段階:責任
「個人の要求のために『自然な絆』を分解させるのが、権利の倫理、一方、このような個人の要求を人間関係のなかにくみこむのが、責任の倫理。そしてこの2つの倫理観の相克から、あらたな問題が生じてくるのです。自分と他人のもちつもたれつの関係が明らかになってくると自他の区別がはっきりしなくなるのです」(p.234)
「女性の権利が変化するにつれて、その道徳的判断も変化しました。思いやり[mercy]ということを公正[justice]で裏うちして、ひとにたいしてだけでなく、自分自身にも思いやりをもつ[care]は正当なことだと、女性が考えることができるようになったのです。すべてを包みこむという問題はまず、フェミニストたちにより公の場で提起されましたが、女性が自分自身を疎外しているに気づきはじめるにつれて、この問題は女性の心理のすみずみにまで鳴りひびくことになります。思いやり[care]ということにたいする関心が、ひとを傷つけるべきでないという理念へと発展するとき、女性は、自分の人間関係を理解することこそ、道徳的な力の源であると考えはじめるのです。しかしまた、権利の概念は、道徳的問題の考察に別の見方をつけくわえることにより、女性の道徳的判断をずっと寛やかな、絶対性の弱まったものへと変えるのです」(pp.264-265)
「権利の倫理は平等にもとづき、公平[equality]ということの理解にかかわるものです。一方、責任[responsibility]の倫理は公正[equity]の概念、すなわち、要求[need]は各自異なるものであるとの認識を拠り所とするのです。権利の倫理は、自己と他者の主張を均衡させて、それぞれを尊重することを明らかにするものですが、責任の倫理は、共感[compassion]と心くばり[care]を生むところの理解にその基盤をおいています。幼少期と成人期の中間の時期を特徴づけるものは、アイデンティティと親密性のかなでる対位法なのですが、これは以上述べた2つの道徳律によってはっきりきこえてきます。そしてこの2つの異なった道徳律は、相補いあってはじめて成熟に至るのです」(p.290)
「女性は、男性とは異なる心理的歴史をたどって人生の半ばに達し、そこで愛や仕事にたいしてちがった可能性をもつ、ちがった社会的現実に直面するのみならず、人間関係に関する女性自身の知識を基にして、経験をちがったふうに意味づけするのです。女性は、かかわりあいの本質を契約で自由にむすぶものというより所与のものとして経験するので、人生を自律と統制の限界をあらわすようなかたちで理解することになります。その結果、女性の発達は力を振うことのあまりない人生のみならず、持ちつ持たれつ心くばりすること[interdependence and taking care]によって達成される成熟へ至る道筋を描きだしています」(p.302)
「責任と権利のあいだの緊張関係が、人間の発達の弁証法を支える柱を理解することは、(結局は結びつくことになる)2つの異なる様式の経験の統合をみるということです。正義の倫理[an ethic of justice]が平等[equality]の前提——すべての人間は同じようにとりあつかわれるべきであるということ——から出発する一方、心くばりの倫理[an ethic of care]は、非暴力の前提——何人も傷つけられるべきでないということ——にもとづいています。成熟の表象のなかで、両方の見方が収斂して、明らかになったことがあります。それは、不平等が、同等でない関係にある者たちにたいして不利にはたらくように、暴力は、関係者すべてに破壊的にはたらくというものです。公平[fairness]と心くばり[care]のあいだの対話は、男性と女性の関係の理解をいっそう深めるだけでなく、成人の仕事と家族関係を、より理解できるかたちで描いてみせるのです」(p.305)

*ハインツのディレンマ
(Lawrence Kohlberg, "From 'Is' to 'Ought'," in T. Mischel ed., Cognitive Development and Epistemology, Academic Press, 1971. 訳文は内藤俊史訳「『である』から『べきである』へ」永野重史編『道徳性の発達と教育』新曜社、1985年、p.10による)
「ヨーロッパで、一人の女性がたいへん重い病気のために死にかけていた。その病気は、特殊なガンだった。女の命をとりとめる可能性をもつと医者の考えている薬があった。それは、ラジウムの一種であり、その薬を製造するのに要した費用の十倍の値が、薬屋によってつけられていた。病気の女性の夫であるハインツは、すべての知人からお金を借りようとした。しかし、その値段の半分のお金しか集まらなかった。彼は、薬屋に、妻が死にかけていることを話し、もっと安くしてくれないか、それでなければ後払いにしてはくれないかと頼んだ。しかし、薬屋は「ダメだよ、私がその薬を見つけたんだし、それで金儲けをするつもりだからね。」と言った。ハインツは、思いつめ、妻の生命のために薬を盗みに薬局に押し入った。
 ハインツは、そうすべきだっただろうか?その理由は?」

**コールバーグの道徳的発達の六段階(同上、pp.22-23より要約。強調は訳文では傍点)
Ⅰ 慣習的水準以前
 第1段階:罰と服従への志向
  物理的[身体的]結果によって行為の善悪を判断し、結果がもつ人間的な意味や価値を無視する
 第2段階:道具主義的な相対主義志向
  正しい行為は自分の欲求や他人の欲求を満たす手段と考える。人間関係は取引の場。物質的・実用主義的
Ⅱ 慣習的水準
 第3段階:対人的同調あるいは「よい子」志向
  よい行為とは他人を喜ばせたり助けたりして他人から肯定されることと考える。多数派の行動や「自然な(ふつうの)」行為に同調。行為の是非は意図の善悪によって判断される
 第4段階:「法と秩序」志向
  権威や規則、社会秩序の維持を指針とする。義務を果たす/権威への尊敬を示す/既存の社会秩序を維持する行為が正しい
Ⅲ 慣習的水準以降、自律的、原理化された水準
 第5段階:社会契約的な法律志向
  正しい行為は一般的な個人的権利や社会全体によって吟味され一致した規準によって定まると考える。権利は私的な価値観や見解に関することであり、それらの相違を意識し、一致に達するための手続き的規準を強調。法的な観点を強調するが法は改正できると考える。法の領域外では、自由な同意と契約が拘束力のある義務を生む。米国の政府や憲法における「公式の」道徳性
 第6段階:普遍的な倫理的原理の志向
  正しさは論理的包括性・普遍性・一貫性に訴え、自分で選択した抽象的な「倫理的原理」(公正、人権の相互性と平等性、人格の尊厳の尊重などという普遍的原理)に従う良心によって定められると考える

●Nel Noddings, Caring: A Feminine Approach to Ethics and Moral Education, University of California Press, 1984.
(立山善康ほか訳『ケアリング——倫理と道徳の教育・女性の視点から』晃洋書房、1997年。以下引用は邦訳による。強調は原文ではイタリック、訳文では傍点)
「わたしは、けっして、女性だけが、世の中すべてのケアを与えるべきだと主張しているのではありません。ここで論じたのは、ケアリングが、歴史的には女性の役割であったこと、そして、女性たちは、何世紀にもわたる経験を経て、ケアを与えることの実践と、道徳的な方向づけの両方に寄与する、なにか特殊なものを身につけていること、ケアリングは、そうした経験から芽ばえたものだということです」(日本語版への序文、p.i)
「倫理学は、おもに父の言葉で、つまり原理や命題という形で、正当化や公正や正義といった用語で議論されてきたといってもよい。母の声は、聞かれなかった。人間のケアリングと、ケアしたり、されたりした記憶を、わたしは倫理的な応答の基礎を形成するものであると主張しようと思うが、それは倫理的行動の結果としてしか注意が払われてこなかった。そこで倫理学は、これまではロゴス(logos)、つまり男性の精神によって導かれてきたけれども、もっと自然でたぶんもっと有力な取り組み方がエロス(eros)、つまり女性の精神を通して行われるのだと、言ってよいのかもしれない」(序論、p.1)
「曖昧な言葉づかいのない、しっかりした概念的基盤を打ち立てるために、わたしは、人間関係の2つの集団に、一方は『ケアするひと(one-caring)』、もう一方は『ケアされるひと(cared-for)』という名前を与えてきた」(序論、p.5)
「つりあいを保ち、混同を避けるために、わたしは、一貫して、総称的な『ケアするひと』と、全称的な女性形の語『彼女(she)』を結びつけ、『ケアされるひと』と男性形の語『かれ(he)』を結びつけてきた」(同上、p.6)
「わたしは、大部分の議論で、『道徳的[moral]』よりも『倫理的[ethical]』を用いるが、しかし、そうする際、倫理的にふるまうことは、道徳的であることの意味についての、受け入れ、正当化できる説明を手引きとしてふるまうことであると想定している」(p.42)

「わたしたちの注目の焦点は、いかにして他のひとと道徳的に接するかという点にある」(同上、P.7)
「わたしは、普遍的なケアリング——すなわち、万人に対するケアリング——という考え方を拒否したいと思う。その理由は、現実問題として、私たちは、抽象的な問題解決や、たんなるお喋りを、偽りのないケアリングの代わりにもってくるわけにはいかないからである」(p.29)
「ケアするひとは、ケアするとき、ケアするという行いのなかに現前している。物理的には存在しないときでさえ、一定の距離を取った行いは、現前するしるし、つまり、他のひとへの専心没頭[engrossment]、他のひとの幸福への、心づかいや願望をうかがわせる。ケアリングはおおむね、反応的、応答的なものである。ことによると、それは受容的と言ったほうが、もっとうまく特徴づけられるかもしれない。ケアするひとは、ケアされるひとに耳を傾け、かれの物語ることに喜びや苦しみを感じようとして、そのひとに十分専心没頭する。ケアされるひとに対する行いは、なんであれ、専心没頭として現れる関係と、ケアされるひとを温め、慰める態度にはめ込まれる」(p.31)
「ケアリングには、自分自身の個人的な準拠枠を踏み越えて、他のひとの準拠枠に踏み込むことが含まれている。ケアするとき、わたしたちは、他のひとの観点や、そのひとの客観的な要求や、そのひとがわたしたちに期待しているものを考察する。わたしたちの注意、心的な専心没頭は、ケアされるひとについてであって、わたしたち自身についてではない。したがって、行いの理由は、他のひとの欲求や願望と、問題状況の客観的な要素の両方に関係していなければならない」(p.38)
「したがって、ケアするひととして行為することは、具体的な状況の中で、個々のひとに対して、特別な敬意を払って行為することである」(p.39)
「ケアリングの最大の危険性のひとつは、合理的・客観的な様式への、早まった切り替えであろう」(p.41)
「ケアリングには、ケアするひとにとって他のひとと『共に感じること』が含まれている。この関係を『共感(empathy)』と呼ぼうと思う…」(p.46)
「わたしたちが論議している種類の共感は、まず他のひとにはいり込むのではなく、他のひとを受け容れるのである。それだから、わたしは助長しない。受け容れ、通じ合い、助けて働く」(pp.48-49)
「わたしが他のひとを受け容れるときには、そのひとと完全に一体となっている」(pp.49-50)
「わたしは、そうした[ケアするという]判断が下されるときに要求されるはずの一般化可能性を否定している。人間関係の状況はそれぞれ独自である」(p.50)
「わたしがケアするとき、これまで論議してきた仕方で他のひとを受け容れるとき、感情以上のものが存在している。つまり、動機の転換(motivational shift)もまた存在しているのである」(p.51)
「この[ケアにおける]専心没頭は、情動的な感情としては完全に特徴づけられない。ケアリングには特徴的で適切な意識の様態がある」(p.52)
「受容的な様態は、人間の実存の核心である」(p.55)
「受容的な様態は、再帰的であると同時に、反省的でもある」(同上)
「わたしたちは、自分がケアリングの同心円(concentric circles)の中心にいるのを見出せる」(p.72)
「ケアするひともまたケアされるひとに依存している」(p.76)
「自然的なケアリング——自分の存在が維持されるためによりかかってきた自然なケアリング——は、わたしたちが必然的に『よい』ものとして確認する自然な状態である。[中略]  倫理的な自己とは、現実の自己と、ケアしケアされるひととしての理想的な自己の見通しとの間の能動的な関係なのである」(p.78)
「規則に従って徹頭徹尾、そして機械的に行動するのであれば、ケアしているといえない」(p.82)
「ケアされ、応答する人は、十分なケアリングの関係のうちで、自由を認識し、その幅のある支持のもとで、成長するのである」(p.114)
「ケアリングの関係というものは、ケアするひとの専心没頭や、動機の転移を要求し、ケアされるひとの認識や、自発的応答を要求する」(p.123)

「倫理的なケアリングが、自然なケアリングには必要のない努力を要するのを認めるからといって、わたしたちは、倫理的なケアリングが自然なケアリングよりも高次であるとする立場に立つわけではない。[中略]ケアリングにもとづく倫理は、ケアする態度を維持しようと努力し、したがって、自然なケアリングに依存しているのであって、それを越えているのではない。だから、倫理的な行動の源泉は、2つの心情——個人に対して直接に感じる心情と、最初の感情を拒否するよりはむしろ受け容れ、維持するかもしれない最善の自己に対して、またそれによって感じる心情——のうちにある」(pp.125-126)
「倫理的な理想について議論するとき、わたしたちは、『徳』について語っているつもりであるが、『徳』を抽象的なカテゴリーで記述される『もろもろの徳』へと散らすつもりはない。[中略]ケアするひとという個人的な理想によって記述される徳は、関係のうちで組み立てられる。それは、他人にまで達し、他人に応答して成長する」(p.126)
「わたしたち全員には、まったく自然にケアする瞬間というものがある。わたしたちはたんにケアするのであり、どんな倫理的な努力も必要ない。『したい』と『すべきである』とは、そのような場合には区別できない。わたしがすべきであるとわたしや他人が判断しているものを、わたしは行いたいのである」(p.127)
「わたしが示唆しているのは、『わたしはしなければならない』が、直接に、また、わたしの行うことがなんなのかについての考察より前に生じるということである。最初の感情は『わたしはしなければならない』である。それが、『わたしはしたい』から区別されずに生じるとき、わたしはたやすくケアするひととして進む。しかし、しばしばそれはわたしにとって葛藤として生じる。[中略]もしわたしがケアするひととしてふるまおうとすれば、第2の心情が要求される。わたしはケアするひととして自らをケアする。そして、わたしに何かを求めているひとに対して、自然にケアするのではないけれども——少なくともこの瞬間にではないが——わたしは、『わたしはすべきである』という偽りのない道徳的心情を感じるのであり、その感性にわたしは拘束されるのである」(p.129)
「『わたしはしなければならない』は義務を果たす命令ではなく、『わたしはしたい』を伴う命令である。[中略]それは欲求から生まれた『ねばならない』である」(pp.129-130)
「わたしの責務の源泉は、ケアリングという関係にわたしが与える価値である」(p.132)
「これは、わたしたちを相対主義に投げ入れはしない。というのは、理想は、その中核に、普遍的な構成要素、すなわち、ケアリング関係の維持を含んでいるからである」(p.134)
「わたしたちの責務は、関係によって制限され、限界が定められる」(p.134)
「2つの[自分の責務を統制する]基準があるように思われる。すなわち、現存の関係の存在あるいは潜在能力と、関係のうちでの成長のための力動的潜在能力とである。後者は、増大する助け合いとおそらく相互性の潜在能力を含んでいる。最初の基準は、絶対的な責務を確立し、第2の基準は責務を優先順に並べるのに役立つ」(p.135)
「第2の基準がわたしたちに求めるのは、潜在的関係の本性、とりわけ、ケアされるひとの応答する能力を考察することである」(p.136)
「幼児は、誕生間近の胎児でさえ関係できる——最も甘くて最も無意識的な助け合いができる——ので、幼児と出会うひとは、ケアするひととして幼児に接するよう責務を負わされているのである」(p.139)
「わたしたちは、人殺しが誤りであるとは言わない。そのような原理を設定することによって、わたしたちはまたその例外を暗示し、公認された例外に基づいて非常に安易に行動するかもしれない。ケアするひとは、脈絡全体のうちで行為それ自体について考察しようと欲し、また、自分の子どもにそれを考察してほしいのである」(p.146)
「これまで、倫理的な理想を倫理的な行為への手引きとして推奨する際に、わたしが示唆してきたのは、正当化の問題に対する伝統的な取り組みが誤りだということである。倫理学者が『なぜわたしはこのように行動すべきなのか』と問うとき、かれの問いは、動機づけよりは正当化を、またその人格の外側にある論理に向けられがちである。[中略]それらはかなりの知的に重要なことがらであるが、しかし、わたしたちの第1の関心が倫理的行為にあるなら、余計なことである。
 道徳的な言明は、事実についての言明が正当化される仕方では正当化できない。それは真理ではないのである。それは、事実や原理からではなく、ケアする態度から導出される。実際、道徳的な言明は、先に述べたように、自然なケアリングに基づく合理的な態度である。道徳的観点や態度から生じるとわたしたちは言えるであろう。このように表現するとき、わたしたちの理解するのは、その道徳的観点を採ることを正当化できないということである。つまり、実のところ、その道徳的観点はどんな正当化の概念よりも先行しているのである」(p.148)
「ケアリングそのものは徳のひとつではない。自分がケアするものでありつづけようとする偽りのない道徳的な関与は、諸々の徳の発達と実行とを引き起こすが、しかし、これらはケアするという状況の脈絡のうちで査定されねばならない。たとえば、忍耐それ自体が徳なのではなくて、特定のケアされるひとのある欠点についての忍耐、あるいは、具体的なケアされるひとを指導するときの忍耐が徳なのである。わたしたちは徳を具象化してはならないし、ケアリングをこうした徳に向けてはならない。そんなことをすれば、わたしたちの倫理は内へと向かい、原理的な倫理学よりもいっそう無益なものになる。というのは、原理的な倫理学は、少なくとも、わたしたちが査定している行為に間接的には接点をもっているからである。徳の充足は、わたしと他人の両者のうちにある」(p.151)
「ケアリングの倫理は不屈の倫理である。それは、もちろん、ケアするときの、ケアするひととケアされるひとの、特別な貢献を確定はするけれども、ケアするときに、自分と他人とを分離しはしない」(p.155)
「究極的な責任あるいは無責任の吟味は、ケアリングの倫理のもとでは、どのようにして倫理的理想が減殺されたのかということにある」(p.159)
「すべては、よくあろうとする意志、すなわち、他人とのケアリング関係を維持しようとする意志次第なのである」(p.161)
「倫理的理想は、2つの心情を源泉として生じてくる。すなわち、ひとつは、人びとが互いに感じ合う自然な共感であり、もうひとつは、大部分のケアリングや思いやりの機会を維持し、回復し、強めようとする切なる望みである」(p.162)
「人間存在に対するわたしたちの関心は、『人格への尊敬』という概念から導き出されているのではない。むしろ、この関心がそうした観点に基礎を与えているのである。厳密に言えば、どんな自然権も存在しない。ただ、自然な傾向性から、また関与を通じて互いに授け合う権利だけが存在するだけなのである」(p.187)
「わたしは、以下のように主張しようと苦心してきた。すなわち、実は、倫理的な行動は、ある程度は、性向的(「自然な」と語る方を好ましい)であり、ある程度は、育みの成果であるような、心理的な深層構造から生まれる、と。わたしたちは、ケアするひととして、倫理的に行動するときに、諸々の道徳原理——たしかに、道徳原理は、思考の指針になるとしても——に従っているのではなく、ケアしケアされるひとの真性の出会いという形で、他のひとと接しているのである。そこには、関与があり、選択がある。関与とは、ケアされるひとや、自分自身の連続的な受け容れに対する関与である。そして、それぞれの選択とは、ケアするひととして存続させたり、向上させたり、その器を小さくしたりしがちである」(p.270)


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