倫理学概論 I 第5回 カントの義務論

 前回の講義で、《どのような結果がもたらされようとも、「義務」として守るべき規範がある》と考える倫理学説を「義務論」と呼ぶ、と述べました。今回のテーマはこの「義務論」です。その中でも義務論者の代表とみなされることの多い、18世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントの考えを取り上げて解説します。

●「義務だからこそ従うべきだ」
 カントは《私たちの行為は、それが義務であるという理由から行われるときにこそ、純粋に道徳的に正しい行為といえる》と考えました。
「純粋に」というのは「経験によって知るのではなく、ただ理性のみによって知られうる」という意味です。私たちは、人生の中のさまざまな「経験」(これは個人的な経験ばかりでなく、教育など公共的な経験も含みます)によって「道徳的」とされていることを知り学びます。ですが、人びとの間で「道徳的」とされていることは、社会や文化や時代によって異なることがあります。また、第3回に述べたように、同じ時代の一つの社会の中であってさえ、何が正しいのかという具体的な規範的判断は、人によっても異なるかもしれません。しかし、カントはこうした相対主義的結論に満足できませんでした。彼が求めたのは、人間が人間である以上、誰もが受け入れざるを得ないような究極的原理でした。このような原理は、「経験」によってではなく、ただ「理性」を働かせることだけによって見いだされなければならない、とカントは考えました。なぜなら、理性こそ、人間を人間たらしめているものとして、すべての人間に等しく備わっているものだからです。
 そこでカントは目的論を退けます。《行為は望ましい目的を果たすがゆえに正しい》という目的論においては、何が「望ましい目的」なのかは経験によって知られるしかなく、その具体的内容は人や社会や文化や時代によって異なってしまうかもしれないので、どんな人間にも普遍的にあてはまる道徳的行為を指し示すことはできません。また《幸福こそあらゆる人間が目指す究極的目的であり、幸福をもたらす行為こそ正しい》という考え方も、何を幸福と考えるかは人と場合によって異なりうるので、すべての人がどんな場合にも行うべき、無条件に正しい行為を示すことはできません。あらゆる人がどんな状況でも行うべき正しい行為とは「望ましい目的を達成するならば〜を行え」と条件付きで指示されるものではなく、端的に「〜せよ」と無条件に指示されるものでなければならないはずです。
 そして、端的に「〜せよ」と指示される行為とは、なぜその行為を行うべきなのか説明しようとすると、単に「〜すべきだからすべきだ」としか説明できない行為です。もし「それがある目的を達成し、その目的は望ましいから」と説明できるならば、その行為はたまたまその目的を達成するから望ましいにすぎないことになるし、その目的自体が望ましいかどうかは、上に述べたように相対的かもしれないからです*。
 このように、端的に「〜せよ」と指示される行為、あるいは、単に「〜すべきだからすべきだ」としか説明できない行為というのは、いいかえれば「それを行うことが義務だから」という理由のみによって行われる行為ということになります。

*《「なぜその行為を行うべきなのか」という理由を示すこと》は、必ずしも《その行為が達成する目的が望ましいことを示すこと》に尽きるわけではありません。目的論においては、あらゆる行為は何らかの目的を果たすものであると《解釈》されますが、私たちの生活の中では、ある行為をすべき理由を「行うべきだから行うべきだ」と説明する場合が少なくありません。

●どのような《ルール》に従うべきなのか?究極的な義務とは何か?
 しかし、もし「それを行うのが義務だから行う」のが純粋に道徳的に正しい行為だとしても、義務だからという理由で行いさえすれば、どんな行為でもそれだけで道徳的に正しい行為になるというわけではありません。たとえば、人を殺しておいて、その理由を「教祖の命令に従う義務を果たすため」と弁明したとしても、それで免罪されるわけではないし、まして「純粋に道徳的だ」と賞賛されるわけもありません。そこで、いったいどのような義務に従うべきなのか、どのような《ルール》に従うことが義務なのか、が問題になってきます。人間である以上誰もが従う義務がある《ルール》とは、いったいどのようなものなのでしょうか。
 この問題を考えるに当たってカントはまず、人間はみな自分なりの《ルール》を立てながら生活している、という点に着目します。より正確に言えば、道徳に関係のある私たちの一つ一つの行為はみな、自分なりの《ルール》(これは「ポリシー」と呼んだほうがわかりやすいかもしれません。カント自身は「格律 Maxime」と呼びました)の表現であると解釈できます。たとえば、友達との待ち合わせの約束を守るならば「人と約束したことは守る」というポリシーを守っていることになります。待ち合わせに遅刻することは「少しくらいなら約束した時刻に遅れてもよい」というポリシーのもとに行動していることになります。電車に乗るときに携帯電話の電源を切る人は「他人に迷惑をかけてはいけない」というポリシーに従っているかもしれません。道端に落ちている1円玉を拾う人は「決してお金を無駄にしてはいけない」というポリシーの持ち主かもしれません。
 そしてカントは、人間である以上誰もが従う義務のある《究極のルール》(これを彼は「道徳法則」と呼びました。倫理学的にはこれは「原理」になります)を、このポリシーが従うべきルール、すなわち《自分なりのルール》についてのルールとして見出します。では、究極の《自分なりのルールについてのルール》とは、いったいどのようなものでしょうか。
 カントはそれを、ルールというものの本質を体現しているルールと考えました。では、ルールの本質とは何でしょうか。それは、そのルールが適用される状況にある人の間では、決して分け隔てすることなく、誰にでも同じようにあてはまる、という「普遍性」です。そして「道徳法則」とは、自分なりのルール(ポリシー)が、自分だけではなく、誰にとってもあてはまる「普遍性」をもつものであるよう指示するルールである、と考えたのです。カント自身は「道徳法則」を、次のような表現を用いて記述しています。

「あなたの格律が普遍的な法則となることを、その格律によって同時に意志しうるような、そういう格律に従ってのみ行為しなさい」(『人倫の形而上学の基礎づけ』第2章)
「あなたの意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為しなさい」(『実践理性批判』第1部第1編第1章第7節)

つまり《ある行動を行う前に、その行動によって表現されることになる自分のポリシーが、他のあらゆる人間のポリシーとなってもかまわないのかどうか自問自答しなさい。そうなってもかまわないのであれば行うべきだし、かまわなくないのであれば行うべきでない》というわけです。たとえば、友達との待ち合わせの約束を守ろうかどうしようか考えるときには、「待ち合わせの約束は守らない」というポリシーと「待ち合わせの約束を守る」というポリシーのどちらが、あらゆる人のポリシーとなりうるのか考えてみます。すると「待ち合わせの約束は守らない」というポリシーのほうは、もしそれがあらゆる人のポリシーになってしまえば誰も待ち合わせには来なくなって、そもそも「待ち合わせ」ということ自体が意味をなさなくなってしまう、ということがわかります。ですから、このポリシーは「普遍化できない」ものとして却下されることになります。これに対して「待ち合わせの約束を守る」というポリシーのほうは、何の問題もなくあらゆる人のポリシーになりえます。このようにして、最終的には「待ち合わせの約束は守るべきだ」ということになるわけです。

●なぜ「義務」になっているのか?
 しかし《人間である以上は誰もが従うべき唯一絶対の究極的原理というものがあるならば、それは「普遍化できるようなポリシーを選べ」というものでなければならない》というカントの議論は一応わかったとしても、それに従うことが私たちの「義務」になっているといえるのはなぜでしょうか。この問いは「なぜ私たちは道徳法則に従う《べき》なのか」という正当化の問いではなく、「道徳法則に従うことが私たちの義務に《なっている》のはどうしてか」という、いわば世界の仕組みの説明を求める問いなのですが、これに対してカントは、おおむね以下のように答えています。

──それは、我々人間が、理性の世界である「英知界」と、感覚的欲望の世界である「自然界」の両方に属している、中間的存在だからだ。もし人間が、神や天使のように、英知界に完全に属している存在ならば、あえて意識して法則に従おうとするまでもなく、おのずと道徳法則に従ってしまうだろう。なぜなら、道徳法則は、ちょうど自然法則が自然界全体を貫く法則であるように、英知界全体を貫く法則なのだから。また、もし人間が完全に自然界に属している動物的な存在にすぎないならば、我々はまったく理性を持たず、道徳法則を知ることもけっしてないだろう。
 だが我々人間は、理性と欲望の両方を持っていることからわかるように、英知界と自然界の両方に属している。そこで、道徳法則を知ってはいるものの、しばしば欲望に負けて、自然法則に従って動物のように生きたくなる。そのような我々にとって道徳法則は、あえて意識して理性的に従わなければならないものであり、それに従うことが理性からの命令と受け取られるのだ。──

 このように、カントのいう「義務」とは、今日私たちが日常使う「他者への義務」や「社会への義務」や「国に対する義務」というようなものではなく、不完全な理性的存在者である人間が、理性的な存在者であり続けるために求められる条件を表しているともいえます。人間は理性的存在者であるにもかかわらず、ともすれば欲望に負けてそれを見失いがちなので、理性を用いて道徳法則に従うことが「義務」として課せられています。それは人間が人間である限りにおいて、逃れられない「義務」なのです。

●目的自体としての人間(性)
 英知界に属する理性的存在としての人間は、絶対的な価値を持ちます。そうである以上、人間は、何かの目的を果たすための単なる手段として(道具のように)用いられるのではなく、目的そのものとして扱われなければなりません。単なる手段として(道具のように)用いられるならば、それは何か他の目的を達成するがゆえに価値を持つ、ということになり、相対的な価値しか持たないことになるからです。
 ただし、現実の人間は理性的存在であると同時に自然界に属する動物的存在でもありますから、生身の人間そのものが絶対的価値を持つというわけではありません。絶対的価値を持つのは、理性的存在としての人間(人格 Person)だけです。そしてカントは、人格の人格たるゆえん、すなわち、人間が理性的存在であるゆえんのことを「人間性 Menschheit」とか「人格性 Persönlichkeit」と呼びます。
 このような人間についての見方に基づいて、カントは「道徳法則」に、次のように別の形の表現を与えています。

 「あなた自身の人格にも他のあらゆる人の人格にも同じように備わっている人間性を、つねに同時に目的として用い、けっして単なる手段としてだけ用いることのないように行為しなさい」(『人倫の形而上学の基礎づけ』第2章)

カントによればこの規範命題は、上に述べた「道徳法則」の言い換えにすぎません。すなわち、究極のルールである「道徳法則」は、普遍性に注目して定式化すると「あなたの格律が普遍的な法則となることを、その格律によって同時に意志しうるような、そういう格律に従ってのみ行為しなさい」(普遍性の法式。「法式」とは「法則の表現形式」という意味です)となり、究極目的としての人間性に注目して定式化すると「あなた自身の人格にも他のあらゆる人の人格にも同じように備わっている人間性を、つねに同時に目的として用い、けっして単なる手段としてだけ用いることのないように行為しなさい」(目的の法式)となり、どちらも同じように究極のルール(原理)である「道徳法則」を表しているのだ、というわけです。
 この「目的の法式」は、カント以降の倫理学で盛んに用いられてきました。たとえば、人を奴隷にしてはいけないのは、奴隷にされる人(の人間性)を単なる手段(道具)としてしか扱っていないからです。また、本人の承諾を得ないまま患者を新しい治療法の実験台にするのも、その患者(の人間性)を単なる手段としてしか扱っていないことになります。
 もっとも、私たちは日常的に、他人の労働力をお金で買っています。たとえば、バスに乗るとき、散髪をするとき、弁当を買うとき、掃除をしてもらうとき、衣服をクリーニングに出すとき、食料を買うとき、授業料を払って授業を受けるとき、等々、あらゆる場面で、私たちは他人の労働にお金を払い、自分の目的を達成するための「手段として」その人(の人間性)を用いています。これらをすべて禁止するなら分業制は成り立たなくなります。カントもそのことには気付いていました。だからカントは、「つねに同時に」目的として用い「けっして単なる」手段として「だけ」用いたりしないように、と書いたのです。カントが禁止したのは、人(の人間性)を手段として用いること全般なのではなく、それを「単なる手段」にしてしまい、人間(性)が絶対的価値を持つということを忘れているような用い方だけです。
 しかしながら、人間(性)を「つねに同時に目的として」用いる、ということは、具体的にはどうすることでしょうか。現代倫理学においてそれは「その人の意思を尊重すること」と解釈されています。バスを運転したり、弁当を売ったり、清掃をしたり、クリーニングをしたり、食料を売ったり、授業をしたりして、それぞれお金をもらうことは、その人たち本人の意思に基づいているがゆえに、その人たち(の人間性)を「同時に目的として用いている」といえます。これに対して、奴隷としてこき使うことや、そうと知らせないまま実験台にすることは、その人の意思に反して行われているがゆえに「単なる手段として用いている」ということになります。ただし、実験台にすることも、患者本人に十分に説明し、本人が理解した上で進んで実験台になるのならば「同時に目的として用いている」ことになりますし、奴隷にするのも、本人がそうなることを望んでいて、いやだったらいつでもやめることが自由にできる(もっとも、その場合にはもはや「奴隷」という言葉はふさわしくありませんが)のならば、やはり「同時に目的として用いている」ことになるので、どちらも認められることになります。
 カントは、理性的存在としての人間は、自分の生き方を自分の意思に従って決めていくこと(自律)ができる存在と考えていました。その中には、普遍化できるような格律を選び、他人をつねに同時に目的として用いけっして単なる手段として用いないようにして、生きていくことを含んでいます。そのような理性的存在であるからこそ、人間(のうちにある人間性)は絶対的価値を持ち、目的そのものとして扱われてしかるべきなのです。その人の意思に基づく自己決定(自律)を尊重することが、「つねに同時に目的として用いる」ことになると解釈される理由もここにあります。

【練習問題】
 カントの義務論は、どのような基本的な考え方によって支えられているでしょうか。カントの義務論を支えている、道徳的原理のあり方についての考え、人間や世界についての見方(人間観・世界観)、行為についての見方などを抽出して、箇条書きに、簡潔な文の形で書き表してみましょう。


【シラバスに戻る】