倫理学入門 第3回
倫理に関する相対主義

 倫理に関する相対主義(倫理的相対主義)は、倫理学にとって重大な問題を提起しています。もし相対主義の主張するように「正しい倫理的原理は人や文化や時代によって異なる」のであれば、人として共通であり時代を通して変わらない倫理的原理を探究することは無意味となり、「筋の通った生き方をする」努力も無駄になるからです。そこで、今回は、倫理に関する相対主義について検討します。

●多元主義とは
 相対主義としばしば混同される考え方に「多元主義」があります。「多元主義」とは〈複数の原理のどれもが正しいことがある〉と考える立場のことで、〈正しい原理は一つに絞られるはずだ〉と考える「一元主義」に対立します。すなわち、多元主義と一元主義は「究極的原理は一つなのか複数なのか」という問題をめぐって区別されます。

●相対主義とは
「相対主義」とは、〈正しい倫理的原理は人(社会、文化、時代)によって異なる〉と考える立場のことで、〈人(社会、文化、時代)を通して変わらず普遍的に正しい原理がある〉と考える「絶対主義(普遍主義)」に対立します。すなわち、相対主義と絶対主義(普遍主義)は「倫理的原理の妥当性は普遍的なのか限定的なのか」という問題をめぐる区別です。

●相対主義の種類
 相対主義でも、「倫理的原理の正しさは何によって異なるのか」という点に関して、「人によって異なる」と考えるのが「個人的相対主義」*、「社会や文化によって異なる」と考えるのが「文化[的]相対主義」、「時代によって異なる」と考えるのが「歴史[的]相対主義」です。

*もっとも、個人的相対主義を学術的に主張する論者はあまりいません。それは第一に、現実には、倫理的原理は、1人ひとり完全に異なっているというわけではなく、ある社会や文化の成員の間ではおおむね共有されているからです。倫理的原理が共有されているからこそ、社会や文化は1つのまとまったものとして認識されるのです。
 また第二に、第1回に述べたとおり、規範としての倫理的原理は、他人に対して「〜すべきだ」というような「指図性」と、そのことが同じような状況にある人には同じように当てはまるという「普遍化可能性」を、論理的な性質として持っています。もし、正しい原理が本当に1人ひとり異なっているのなら、同じような状況に置かれていても、1人ひとりのなすべき行為はそれぞれの原理に合わせて指図されなければならないことになりますが、それは実際には容易なことではありません。
 このように、個人的相対主義は理論的には成り立ちますが、現実的な困難があるので、倫理に関する相対主義は、実際には「文化[的]相対主義」か「歴史[的]相対主義」のいずれか、あるいは「文化によっても時代によっても異なる」という複合形態(「文化的歴史的相対主義」)をとっています。

●多元主義と相対主義は必ずしも重ならない
 多元主義と相対主義は、問題にしている論点が異なるので、必ずしも重なりません。多元主義と相対主義をめぐる立場としては、多元主義か一元主義か、相対主義か絶対主義(普遍主義)か、の組み合わせで、2×2=4通りの立場がありえます。
 第一に、〈正しい原理は一つで、人(社会、文化、時代)を通して変わらない〉と考える「一元主義的絶対(普遍)主義」があります。
 第二に、〈複数の原理が、人(社会、文化、時代)を通して変わらず正しい〉と考えるのは「多元主義的絶対(普遍)主義」です。
 第三に、〈正しい原理は人(社会、文化、時代)によって変わるが、それぞれの人(社会、文化、時代)ごとに正しい原理は一つに絞られる〉と考えるなら「一元主義的相対主義」になります。
 第四に、〈正しい原理は人(社会、文化、時代)によって変わり、しかもそれぞれの人(社会、文化、時代)にとって正しい原理は複数ある〉と考えるのが「多元主義的相対主義」です。

●複数の原理がいずれも正しく思える場合とは
 多元主義や相対主義が出てくるのは、対立する複数の倫理的判断がそれぞれ異なった原理に基づいていて、どちらも正しいように思えるか、少なくともどちらかを正しくないとは思えないような場合です。
 たとえば、事例1をめぐる討論で、「両親の意思に反してでも治療を行うべきだ」という側に立つ理由として、
 (A) 救命できる患者(新生児)を死なせてはならないから。
というものが出されたとします。
 また、「治療を行うべきではない」という側に立つ理由として、
 (B) 両親の意志を尊重すべきだから。
 (C-1) 両親に大きな負担をかけることになるから。詳しくいえば、
  (C-1-i) 治療費が高額になり経済的負担が大きいから。
  (C-1-ii) 非常に重い知的障害児を育て介護しなければならない負担が大きいから。
 (C-2) 治療を行って延命してもさらに心臓手術を行う必要があり、新生児本人にかか
    る負担が大きいから。
 (C-3) 非常に重い知的障害児(者)は、社会に大きな負担をかけるから。
 (D) 他者とコミュニケーションがとれないのでは生きる価値がないから。
というものが出されたとします。
 このうち、理由(A) に対しては、「なぜ救命できる患者を死なせてはならないのか?」と問うことができます。この問いに対しては、たとえば「死を回避するために全力を尽くすべきだから」(大前提)という理由と、「救命できる患者を死なせないのは、死を回避するために全力を尽くすことだから」(小前提)という理由を示すことができます。ここで、「なぜ死を回避するために全力を尽くすべきなのか?」と問われたなら、たとえば「生きていることは何よりも大切なことだから」(大前提)という理由と、「死を回避するために全力を尽くすことは、生きていることを何よりも大切にすることだから」(小前提)という理由を示すことができるでしょう。さらに「なぜ生きていることは何よりも大切なことなのか?」と問われれば、もはや「大切なことは、大切なことなんだ!」としか答えようがないかもしれません。もしそうであるなら、「生きていることは何よりも大切なことだ」という理由が、「治療すべきだ」という倫理的判断の究極的な理由、つまり倫理的原理であることになります。
 同様に (B) について理由づけの連鎖を追っていくと「両親の意志を尊重すべきなのは、患者である新生児の利益を誰かが代弁すべきで、代弁者としては新生児のことを最もよく理解できるはずの親が最もふさわしいからである。また、新生児の利益を誰かが代弁すべきなのは、医療においては一般に、患者の利益を最大にするよう行為すべきであり、この利益は本来は患者本人の表明によるべきだが、新生児は自らの利益を表明できないから」ということになり、究極的には「患者本人の利益を最大にすべきだ」という理由(倫理的原理)に行き着くように思われます。
 また、(C-1)、(C-2)、(C-3) についてさらに理由を問うなら、最終的には「誰であれ、過大な負担を強いられるべきでないから」という理由(倫理的原理)に至るでしょう。さらに、(D) の「他者とコミュニケーションがとれないのでは生きる価値がない」という理由は、それ自体で倫理的原理とみることができます。
 このように、例としてあげた討論から、
A. 生きていることは何よりも大切なことだ
B. 患者本人の利益を最大にすべきだ
C. 誰であれ、過大な負担を強いられるべきでない
D. 他者とコミュニケーションがとれないのでは生きる価値がない
の4つの倫理的原理を見出したとしましょう。

●この例にみられる多元主義
 この場合、「両親の意思に反してでも治療を行うべきだ」という主張は、Aの「生きていることは何よりも大切なことだ」という唯一の原理によって根拠づけられていますので、この立場は一元主義になっています。
 これに対して「治療を行うべきではない」という主張は、究極的な理由としてB・C・Dという3つのそれぞれ独立した原理によって根拠づけられています。この3つの原理をみな正しいと考えているか、あるいは少なくとも2つの原理は正しいと考えているなら*、こちらの立場は多元主義になります。

*Bの「患者本人の利益を最大にすべきだ」という原理と、Cの「誰であれ、過大な負担を強いられるべきでない」という原理は、誰かに過大な負担を強いなくても患者本人の利益を最大にすることができるので、両立させることができます。BとDも、他者とのコミュニケーションがとれず生きるのをやめることは患者本人の利益を最大にするとも考えられるので、両立します。CとDについても、他者とのコミュニケーションがとれず生きるのをやめたからといって、誰かに過大な負担をかけることには必ずしもならないので、両立します。さらに、BとCとDは、3つ同時に両立することもできます。

 もっとも、「治療を行うべきではない」派のなかには、B・C・Dいずれか1つの原理だけを正しいとみなし、他の原理は正しくないと考える人もいるかもしれません。そういう人は一元主義者です。
 要するに、「行うべきだ」「行うべきでない」どちらの主張を行うとしても、その究極的理由となる原理は1つであると考えるなら一元主義であり、複数の原理に根拠づけるなら多元主義です。

●相対主義はどのようにして現れるか
 ところで、Aの「生きていることは何よりも大切なことだ」という原理は、生きていることを無条件に価値あるものとしています。この原理は、生きていることを最優先のことがらとしますので、「たとえ患者本人の最大利益にならないとしても、たとえ誰かに過大な負担をかけたとしても、たとえ他者とコミュニケーションがとれないとしても、やはり生きているべきだ」ということになります。つまり、Aの原理は、B・C・Dのいずれの原理とも両立しない、絶対的(普遍的)な内容をもっています。
 このとき、「治療行うべきだ」と主張する人たちは、「原理Aが正しく、原理B・C・Dはまちがっている」と確信しているかもしれません。一方、BやCやDの1つあるいは複数を理由として「治療を行うべきでない」と主張する人たちは、「原理Aはまちがっており、原理BやCやDが正しい」と確信しているかもしれません。もしそうだとすると、「治療を行うべきだ」派も「治療を行うべきでない」派も、それぞれが依拠する原理は普遍的に正しいと考えていますから、どちらも絶対主義者(普遍主義者)です。
 しかしながら、こうした両派の対立状況をみて、「どちらの原理もそれなりに正しく思えるが、かといってどちらかが絶対的に正しいと言い切れるほどには確信をもてない」という人もいるでしょう。そういう人は、「〈生きていることは何よりも大切なことだ〉とは思うが、〈患者本人の利益を最大にすべきだ〉とか〈誰であれ、過大な負担を強いられるべきでない〉とか〈他者とコミュニケーションがとれないのでは生きる価値がない〉とも思える」というふうに迷っており、「治療を行うべきだ」派にも「治療を行うべきでない」派にも属することができません。もしかすると、「治療を行うべきだ」派や「治療を行うべきでない」派のなかにも、自分の側の原理に100%の確信をもてず、相手側の原理にも正当性があるように感じている人がいるかもしれません。また、討論に参加してどちらかの側に分かれるのではなく、討論を見に来て、「治療を行うべきだ」派と「治療を行うべきでない」派の対立状況を、傍らから観察しているだけの人もいるかもしれません。
 このように、どちらとも決めかねている人や、傍らから観察している人が、相対主義者になります。つまり、対立しあう原理のどちらにも正しいところがあると感じる場合、〈正しい倫理的原理は人(社会、文化、時代)によって異なる〉という相対主義が現れるのです。といっても、同一の主体(人、社会、文化、時代)が相対立する両方の原理を同時に正しいと主張するならば論理的に矛盾します。そこで「倫理的原理は、その時、それを正しいとする主体にとっては正しい」というように、正しいとする倫理的原理を、時間や主体ごとに割り振るのです。そうすれば、論理的矛盾をきたすことなく「両方とも正しい」と主張することができます。
 しかし、論理的に両立しない2つの原理のどちらも同時に正しいと感じるということは、裏返せば、どちらの原理にも自分としては十分に納得していない、ということです。そして、自分自身としては、どちらの立場にも身を投じていない(いいかえれば「コミット[関与]」していない)のです。とりわけ、討論に参加するのではなく、討論を傍らから観察する場合にはそうです。「自分は身を投じていない」「コミットしていない」ということこそ、まさしく、客観的な観察を成り立たせる条件なのですから。
 もし、自分の倫理的判断(この場合では「治療すべきだ」または「治療すべきではない」のいずれか)を根拠づける理由を、納得するまで考え抜いて、確信をもってその判断が正しいと「コミットする」ならば、それに反する倫理的判断は「正しくない」といわざるをえなくなります。同じ状況に置かれたなら「〜すべきだ」と指図される内容は同じでなければならない(普遍化可能でなければならない)というのが、規範命題である倫理的判断の性質だからです。したがって、対立しあう原理が「両方とも正しい」とか、どちらか一方について「正しいとも正しくないともいえる」と主張するのは、自分自身は倫理的判断を真剣に下していない(倫理的判断にコミットしていない)、ということを示していることになります。

●なぜ倫理に関する相対主義が流行るのか
 このように考えてくると、倫理に関する相対主義が、社会学、心理学、文化人類学、歴史学などにおいてしばしば主張されるのはなぜかがわかります。第1回で述べたように、社会学や心理学や文化人類学や歴史学は、社会や文化や歴史という、人間が営む現象を、客観的に観察し記述する科学です。したがって、倫理的判断などの規範について研究する場合も、自分自身その倫理的判断に身を投じコミットして正当化理由を考えるのではなく、自分の倫理的判断は棚上げにして、人々が行っている倫理的判断を、対象として距離を置きながら、傍らから冷静に、客観的に観察しなければなりません。客観科学である以上、社会学や心理学や文化人類学や歴史学の研究者は、観察対象である人々の倫理的判断を、自ら「正当化」する(どうして「〜すべき」等といえるのか理由を示す)ことがあってはならないのです。社会学者や心理学者や文化人類学者や歴史学者が、記述対象とする人々の倫理的判断にコミットして、自分ならどうすべきか、その是非を考え始めてしまったら、それは客観科学たる社会学や心理学や文化人類学や歴史学の研究とはいえません。
 しかも、普遍的で絶対的な倫理的原理があると素朴に考えられていた時代とは異なって、社会学や心理学や文化人類学や歴史学が発展したおかげで、地球上や歴史上で人々が抱いてきた倫理的原理は非常に多様であるという事実が明らかになり、人類共通の原理を見出すことは難しいように思える今日では、どうしても倫理に関する相対主義に傾きがちです。
 しかし、社会学や心理学や文化人類学や歴史学の研究者が、自分の倫理的判断を「正当化」する(どうして「〜すべき」等というのか理由を示す)ことを求められている場面で、なお相対主義を主張したとしたら、それは基本的な間違いを犯していることになります。すなわち、〈「正しい」[と考えられている]倫理的原理は人(社会、文化、時代)によって異なる[という現象がある]〉という記述的主張(事実命題)ではなく、〈正しい倫理的原理は人(社会、文化、時代)によって異なる[べきだ、異なってよい]〉という規範的主張を行ったとしたら、それは明らかに誤りです。
 ですが、今日ではこのような誤りは、客観科学である社会学や心理学や文化人類学や歴史学の研究者だけでなく、一般の人々の間にも広く流布しています。それは第一に、「客観科学でなければ学問ではない」とか「自ら倫理的判断にコミットして正しいといえる理由を考えるなどというのは学術的研究ではない」というような、学問のあり方に関する《客観科学主義》がなお浸透しているからでしょう。また第二に、自ら倫理的判断にコミットして正しいといえる理由を考え抜くためには厳しい議論や対話を求められるので、むしろ自分の倫理的判断を停止して、他の人の判断を眺める傍観者的立場に身を置きたがる人が多いからかもしれません。
 もちろん、深く考えずに倫理的原理について絶対主義を主張したり、現実をよく知らないまま「〜すべきだ」と指図したりするのは困ります。倫理的原理や倫理的判断について考え抜く過程で、確信が得られるまで判断を保留する慎重な姿勢は、性急なコミットメント(関与)よりも望ましいものです。しかし、だからといって「しょせん正しい倫理的原理とは人(社会、文化、時代)によって異なるものなんだ。だから議論したり対話したりするのは無駄だ」と結論づけて思考を停止してしまうなら、それもまた性急すぎます。
 自分の倫理的判断を「正当化」する(どうして「〜すべき」等といえるのか理由を示す)ことを求められている状況下で、倫理に関する相対主義を主張するのは、議論や対話を避けるための逃げ口上にすぎません。なぜなら、私たちは日々「〜はよい」「〜はわるい」「〜すべきだ」「〜すべきでない」「〜しなければならない」「〜しなくてもよい」などといった倫理的判断を下しているし、一刻たりとも、そうせずに生きることはできないからです。そして、そのような倫理的判断は、指図性と普遍化可能性をもつゆえに、他者に対してつねに「なぜそういえるのか」という理由を示すことが要求され、しかもその究極的理由である倫理的原理は、自分自身としては「誰にでも当てはまる普遍的なものはずだ」と考えざるをえないからです。

●客観的観察の重要性
 ただ、「倫理学する」(規範の根拠について考える)ということは、自分の倫理的判断を「正当化」する(どうして「〜すべき」等といえるのか理由を示す)ことに限られるわけではない、ということも、ここで押さえておく必要があります(この点について、第1回の講義では、あいまいな説明しかしていませんでした)。もちろん、自分の倫理的判断を正当化することは、最も直接的に規範の根拠を考えるやり方です。ですが、その前に、そもそも、「規範」とはどういうものなのか、「〜はわるい」「〜はよい」「〜してはいけない」「〜してもよい」「〜すべきだ」「〜すべきではない」などはどういうことを意味しているのか、規範の根拠(「〜はわるい」「〜はよい」「〜してはいけない」「〜してもよい」「〜すべきだ」「〜すべきではない」といえる理由)を考えるとはどういうことであり、どんな意義があるのか、といったことを、多少なりとも考えておく必要があります。こうしたことについてまったく考えることなく、単に自分の信じる規範を正当化する(どうして「〜すべき」等といえるのか理由を考える)だけでは、非常に視野の狭い議論になってしまう可能性があります。
 これらは、規範およびその根拠について考えること(「倫理学する」こと)について考えること、すなわち、倫理学そのものの本質や役割や意義について考えること、です。いわば、倫理学(道徳哲学)についての哲学であり、「倫理学基礎論」(倫理学が成り立つ基礎についての理論的探究)、広い意味での「メタ倫理学meta-ethics」*であるともいえます。倫理学は、こうした、倫理学そのものやその基盤についての思考をも含んだ学問なのです。

*「メタmeta」というのはもともと「後に」という意味をもつギリシア語の前置詞で、アリストテレス全集が編纂されたとき「自然学についての学」(形而上学)が「自然学」(英語で表記するとphysics)の「後に」置かれてmeta-physicsと呼ばれたことから、「メタ○○学」というと「○○学についての学」という自己言及的な研究を意味するようになりました。
 これに対して、とくに20世紀には、倫理学基礎論のうち、「〜はわるい」「〜はよい」「〜してはいけない」「〜してもよい」「〜すべきだ」「〜すべきではない」とはどういうことを意味しているのか、といったような、規範の言語哲学研究が盛んに行われ、「メタ倫理学」と呼ばれました。ここでは、こうした倫理学史用語としての「メタ倫理学」を「狭い意味でのメタ倫理学」とし、倫理学基礎論としての「広い意味でのメタ倫理学」と区別することにします。

 そして、そもそも規範とはどういうものか、ということを考えるにあたっては、自分の「〜はわるい」「〜はよい」「〜してはいけない」「〜してもよい」「〜すべきだ」「〜すべきではない」などの倫理的判断やそれに関する思考自体を、対象として観察する必要があります。ここで、社会学や心理学や文化人類学や歴史学のように、対象を客観的・第三者的に観察する姿勢が求められます。
 規範を対象とする社会学や心理学や文化人類学や歴史学は、人間の社会や心理や文化や歴史において、規範がどのように働き、何をもたらしているのか、客観的に観察し記述することによって、規範についての事実を私たちに知らせてくれます。第1回で述べたように、これらは「記述的倫理学」として、倫理学の一部門と捉えることもできます。したがって、客観的に観察する姿勢自体は、倫理学にとって欠かすことのできない重要な要素なのです。問題はあくまでも、それが行き過ぎて、倫理に関する相対主義に陥ってしまう場合です。

●何が違って、何が違わないのか──小前提(事実)と大前提(原理)
 しかしながら、社会学や心理学や文化人類学や歴史学が、人間の社会や心理や文化や歴史において、規範がどのように働き、何をもたらしているのか、客観的に観察し記述していくと、たしかに規範は、人々や社会や文化や時代によって、異なっているのが見出せます。たとえば、一昔前の日本では、多くの人々が「夫は外で働き妻は家を守るべきだ」という規範を当然と考えていましたが、現在では「妻も夫と同様に外で働いてもよい」と考える人々が増えてきています。これは、社会で優勢な規範が時代によって違ってきたといえます。また、昔でも「妻も夫と同様に外で働いてもよい」と考える人々は少数ながらいましたし、現在でも「夫は外で働き妻は家を守るべきだ」と固く信じている人はいますから、当然と考える規範は人によって違います。さらに、同じ人でも、以前は「夫は外で働き妻は家を守るべきだ」とかたくなに思っていたけれど、何かのきっかけで「妻も夫と同様に外で働いてもよい」という考えに変わった人もいるかもしれません。これは、時代によって、同じ1人の人のなかですら、規範が異なることを示しています。まして、異なる社会や、異なる文化などでは、規範の違いは容易に見出せます。そして、その人、その社会、その文化、その時代にとっては、その規範は正しいと考えられています。こうしたことから、「正しい規範は人や社会や文化や時代によって異なる」という相対主義のほうが、むしろ正当な主張であるようにみえます。
 しかしながら、このように「正しい規範は人や社会や文化や時代によって異なる」と思えるとき、異なっている規範はたいてい、第2回の講義で行った区別でいえば「規則」すなわち個々の具体的な規範であって、「規則」を根拠づける抽象的な規範である「原理」ではありません。「夫は外で働き妻は家を守るべきだ」という規範の根拠を実践的三段論法の形式を用いて整理してみると、たとえば「夫も妻もそれぞれの本分を果たすべきだ」という大前提(より抽象的な規範命題)と、「夫にとっては外で働くことが、妻にとっては家を守ることが、それぞれの本分だ」という小前提(一般的事実を述べた命題)によって根拠づけられていることがあります。一方、「妻も夫と同様に外で働いてもよい」という規範の根拠を分析すると、「夫も妻もそれぞれの本分を守るべきだ」という大前提と、「夫の本分は必ずしも外で働くことではなく、妻の本分は必ずしも家を守ることではない」という小前提に基づいているとします。この場合、「夫は外で働き妻は家を守るべきだ」という規範と「妻も夫と同様に外で働いてもよい」という規範はたしかに相容れない形で対立していますが、それは「夫や妻の本分とは何か」という事実問題をめぐって見解が異なっているだけで、双方とも「夫も妻もそれぞれの本分を守るべきだ」という規範を大前提として正しいと考えているのは同じなのです。
 このように、正しいとされる具体的な規範(規則)は人や社会や文化や時代によって異なっていても、その規範を大前提として根拠づけるより抽象的な規範は、人や社会や文化や時代を通して、共有されていることが多いのです。まして、究極的な大前提である「原理」は、人や社会や文化や時代によってもほとんど違わないといってよいでしょう。そうでなければ、そもそも他の人や社会や文化や時代を理解することすらできないはずです。なぜなら、「約束を守れ」とか「信頼を裏切るな」といったようなごく基本的な規範(原理)は、人と人が出会い、心を通わせ、社会を成立させるために、最低限必要なものだからです。それらの規範が共有されていなければ、そもそも社会や文化は成り立ちえないし、他の人や社会や文化や時代について理解することすらできないのです。
 社会学や心理学や文化人類学や歴史学の客観的観察が成り立つのも、こうしたごく基本的な規範(原理)が、観察対象となっている人々と観察者である研究者との間で共有されているからこそです。そうでなければ、そもそも「正しい規範は人や社会や文化や時代によって異なる」ということも理解できません。
 このように、「正しい規範は人や社会や文化や時代によって異なる」と主張する相対主義者は、じつは原理の普遍性の土台に依存しながらその主張を行っている、つまり、「それほど異ならない」とわかっていながら「異なっている」と主張している、という点で、自己矛盾を犯しているのです。

*もっとも、この回の冒頭で、倫理に関する相対主義とは「正しい倫理的原理は人や文化や時代によって異なる」という立場である、と定義しておきましたので、単に「正しい規範は人や社会や文化や時代によって異なる」と考えるだけでは、厳密にはここでいう「倫理に関する相対主義」だとはいえません。
 ただ、社会学や心理学や文化人類学や歴史学の研究者が相対主義に陥ってしまう場合は、そもそも原理と規則を区別せずに、具体的な規範も抽象的な規範もすべて「人や社会や文化や時代によって異なる」と考えてしまっていることが少なくないようです。


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