●台脳組織摘出実験(1950年頃)

 東京都立松澤病院の臺(台・うてな)弘医師(後に東京大学医学部精神科教授)が、精神分裂病患者42人(男性25人、女性17人)、対照患者(精神病質、[躁]鬱病、神経症、脳炎後性格異常、てんかん、進行麻痺など)および診断に疑義のある患者(ヒロポン中毒含む)28人(男性20人、女性8人)の計70人に対し、ロボトミー(前頭葉白質切截手術)の際(切截の前に「小尖刃刀又は小鋏を以て軟膜の一部を切り、其処から鋭匙を入れて主として皮質組織をsubpialにすくひとる」。皮質白質を合わせて約1g。摘出した脳組織の試験管内でのin vitro代謝状況を調べる。論文では1名死亡のみを記載。学会で告発後にそのほか2名の死亡例の詳細(脳の出血多い)が報告される
(台弘・江副勉「精神分裂病者脳組織の含水炭素代謝に就いて」[第一報・第二報]H. Utena & T. Ezoe, "Studies on the Carbonhydrate Metabolism in Brain Tissues of Schizophrenic Patients"『精神神経学雑誌』Psychiatria et Neurologia Japonica Vol.52, No.5 [May 1951])

 1971年3月、石川清氏が精神神経学会に質問書を提出。学会は「『石川清氏よりの台氏批判問題』委員会(仮称)」を設置して審議。1973年3月に報告書(「人体実験の原則(提案)」を含む)を提出。1973年4月の評議員会で2名の死亡例の詳細が報告されて台氏擁護論が影を潜める。第70回大会で「(1) 被実験者に直接利益をもたらすものではなく」「(2) 患者および家族の同意を得ていない」がゆえに「人権上の立場から、医学実験として到底容認しえない」こと、後に提示された2名の死亡については「皮質採取がなければ死にいたらなかった可能性が強い」として、台氏を批判する決議を行う。
(『精神医療』3(1) [Summer 1973])

●ツツガ虫病感染実験(1952-56)

 新潟大学医学部桂内科の桂重鴻教授以下の医師が、医療法人青山信愛会新潟精神病院の入院患者118人に対して、ツツガムシ病原菌(リケッチア)を注射(うち9人からは皮膚の一部を切除)。患者8人が死亡(うち一人は自殺)。日弁連人権擁護委員会へ申立。日弁連「恙虫病人体実験特別委員会」は人体実験と認め、桂内科の医師および病院幹部に厳重警告、幇助した医師たちに注意、関係省庁等に通報、を求める結論を下す。精神病院協会理事長が全国の精神病院長に通報する事を確約。
(日本弁護士連合会『人権白書昭和43年版』日本弁護士連合会、1968年、pp.126-134)

●名古屋市大医学部乳児院収容児実験(1952)

 名古屋市立大学医学部小児科の医師たちが、附属病院内に設置された名古屋市乳児院の収容児に対して、特殊大腸菌(「アルファー・ベーター大腸菌」)を投与。投与された乳児および伝染した乳児は下痢を起こし、重態に陥って静脈切開点滴を受けた児も。伝染した乳児が一人死亡。胸腺注射(前縦隔洞充気術)、バルーン法(健康児の肛門にサックを結びつけたゴム管を差し込み、空気を入れて腸の動きを調べる)などの実験的処置も相当数行われていた。
(日本弁護士連合会『人権白書昭和43年版』日本弁護士連合会、1968年、pp.134-136;高杉晋吾『七三一部隊細菌戦の医師を追え』徳間書店、1982年、pp.94-111)

●神戸医大乳児乳糖投与実験(1958)

 兵庫県立神戸医科大学(神戸大学医学部の前身)小児科の医師たちが、人工乳中の乳糖の適切な濃度を調べるために、乳児の鼻から肛門まで直径1ミリの細いビニール管を通し、腸の一定の部位から内容物を外に吸い出せるようにした上で、さまざまな乳糖濃度の人工乳を与える。乳糖濃度の高い濃い人工乳を乳児が飲もうとしないときは、もう一本ビニール管を鼻から胃まで入れて強制的に投与。こうして、人工乳の乳糖濃度を10%以下に保つ必要があることが判明。しかし、ひどく苦しんで40度以上の高熱を発する児や、高乳糖濃度の人工乳を与えられて消化不良のため頻繁に下痢・下血・嘔吐を起こし危篤状態に陥る児も。父母や後見人には全く説明もなく、乳児室は外部から隔離されて密室化されていた。
(清水昭美『増補・生体実験』三一新書、1979年;日比逸郎「臨床研究と生体実験」『ジュリスト臨時増刊・医療と人権』(No.548)、有斐閣、1973年11月、pp.18-23)

●キセナラミン事件(1963)

 1962年に抗ウイルス剤としての可能性を期待された化合物キセナラミンの合成に成功した興和株式会社が、その臨床データの収集を東北大内科教授に依頼。1963年、同教授は自らを班長とし、東京大、京都大、九州大、札幌医大、東京医科歯科大、名古屋大、大阪大、熊本大、信州大の教授や国立予防衛生研究所付属病院長などを班員とする「ウイルス病化学療法研究班」を組織。患者に投与して肝炎や肝臓障害が認められた例があるにもかかわらず、興和に「100名程度の自覚症調査」を依頼。興和は1963年10月、自社の社員104名にキセナラミンを服用させる。対照群は103名、二重目隠しによる第一相試験。対象者の選定は興和が一方的に行い、服用の説明に医師は立ち会わず、社内の実験担当や職場の上司が「キセナラミンの開発に協力してほしい」等と服用を要請。拒否した社員との間に押し問答もあった。事前の健康診断は一切なく、実験開始後の問診がなされない職場もあり。誤って実験要項の倍量の2グラムを配布。キセナラミン服用者中76名(73%)が発熱、便秘、下痢、頭重感、頭痛、食欲不振、吐き気、熱感、めまい、全身倦怠感、脱力感、発疹、黄疸、痒感、肩こり、腹部膨満感、咽頭痛、腹痛、心窩部痛、胃痛、生理異常などを訴えたが、問診した医師は大部分の被験者に服用続行を指示。上司は胃痛の訴えに「胃腸剤と併用して服用を続けるよう」指示し、欠勤や入院にもまったく対応せず。服用終了の約2週間後までに17人が入院(最短約一か月、最長は2度にわたり1年以上)、うち1人が死亡(死因は癌の骨転移による骨硬化症と急性気管支肺炎)。1965年3月、興和社員が東京法務局人権擁護部に申立。法務局は1967年4月に、研究班に対し (1) 前臨床試験が不十分、(2) 被験者選定方法の指示を与えていない、(3) 医師による管理が不十分(薬の配布の監督なし、事前の健診なし、実験開始後の健康管理不十分)、興和に対し (1) 被験者の任意性の確保について配慮を欠く、(2) 医師の管理への配慮が不十分(研究班との連絡不十分、薬の配布の監督なし、事前健診なし、服用量を誤った経過不明、開始後の健康管理不十分)、として勧告を行う。1965年5月には、被害者と興和の間で、被害が完全に治癒するまで検査・治療および定期健診の全費用を負担するという念書が交わされる。
(光石忠敬「被験者の法的保護──キセナラミン事件を手がかりに」『新医薬品開発要覧・臨床編』R&Dプランニング、1986年、第1章第3節、pp.26-37;片平冽彦「新薬の研究開発と人権」『ジュリスト増刊総合特集・日本の医療−−これから』No.44 [1986.9], pp.178-184;甲斐克則「人体実験と日本刑法」『広島法学』14 (4) [1991.3], pp.53-91)

●和田心臓移植(1968)

 1968年8月8日、札幌医科大学胸部外科の和田寿郎教授により、日本初(世界では30例目)の心臓移植。レシピエントは宮崎信夫(18)、ドナーは山口義政(21)。レシピエントは手術後83日目の10月29日に死亡。レシピエントの手術への適応と、ドナーの死の判定に疑義があり、大阪の漢方医らが和田教授を殺人罪で告発。札幌地検は1970年、嫌疑不十分で不起訴。日弁連人権擁護委員会は「心臓移植事件調査特別委員会」を設置して調査、報告書をまとめる。
 中川一東京高検検事・秋山真三東京地検検事「いわゆる心臓移植事件の概要と捜査処理上の問題点」(1972年2月):「すべてに優先して、証拠という制約されたものによって、いわば勝負を付けなければならないという近代捜査ひいては、刑事裁判の限界というものをあらためて痛いほど思い知らされたのである」(共同通信社『凍れる心臓』p.285)
 日弁連:インフォームド・コンセントにならないので違法性を阻却しない。刑事的にはレシピエントおよびドナーに対し未必的故意による殺人ないしは業務上過失致死罪の責を負うべき。民事的には遺族に対し不法行為による損害賠償責任を免れない。
(参照)共同通信社社会部移植取材班編著『凍れる心臓』共同通信社、1998年;日本弁護士連合会『人権白書昭和47年版』日本評論社、1972年、pp.209-218

●広島大癌免疫療法(1969)

 第28回日本癌学会総会で、広島大学医学部原爆放射能医学研究所外科の岩森茂助教授ら9名の研究グループが、同種脾臓細胞を用いた癌免疫療法を発表、人体に対しても臨床実験していることを報告。西岡久寿弥座長(国立がんセンター)が「非癌患者で脾細胞が免疫学的に弱まっている患者に癌組織を注射して安全か、患者の了解を得たか」と発言、マスコミに取り上げられる。広島弁護士会人権擁護委員会が調査を始め、のちに日弁連人権擁護委員会に移送。日弁連特別委員会「人体実験に関する世界医師会倫理規定(ヘルシンキ宣言)に反し、患者の人権を著しく侵害した行為であり、甚だ遺憾」「今後かかる過誤を重ねることなきよう厳重に警告する」
(日本弁護士連合会『人権白書昭和47年版』日本評論社、1972年、pp.199-208)

● 東北大インシュリン・ブドウ糖負荷試験(1970)

 1970年4月13日、東北大学付属病院第二内科(鳥飼内科)で、甲状腺機能亢進症(バセドウ病)で周期性四肢麻痺のある45歳の患者が、インシュリン・ブドウ糖負荷試験によって麻痺を誘発された結果、死亡。
 遺族が国を相手取って、損害賠償(債務不履行[注意義務違反]および不法行為[人体実験])を求め提訴。第一審は、人体実験との主張は認めないものの、大学病院の医師は一般開業医より高度な注意義務が課せられているとし、注意義務違反で賠償を認める。これに対し遺族は、人体実験を主、注意義務違反を従と構成し直して控訴。第二審は第一審同様、人体実験との主張は認めず注意義務違反で賠償を認めた(大学病院医師に対する高度な注意義務には言及せず)。
(参照)『判例時報』882号 [5/21/1978] pp.83-104(第一審判決)、『判例評論』237号(『判例時報』900号)[11/1/1978] pp.159-163(清水兼男・判例評釈)、『判例時報』1234号 [8/1/1987] pp.82-94(第二審判決)、『年報医事法学』3号 [1988] pp.133-138(金川琢雄・判決紹介)、田上富信「インシュリン・ブドウ糖負荷試験事件」『医療過誤判例百選第二版』別冊ジュリスト140号 [1996] pp.180-181、甲斐克則「人体実験と日本刑法」『広島法学』14 (4) [1991.3] pp.53-91 (esp. 73-76)、西山明『ドキュメント生体実験』批評社、1984年

●金沢大附属病院無断臨床試験(1998)

 1998年1月、金沢大学医学部附属病院に入院し卵巣癌摘出手術を受けた女性が「卵巣腫瘍に対するシスプラチン製剤の使用」を受ける。それが実際にはシスプラチンに他の抗癌剤を併用した「CP療法」であり、これとアドリアマイシンを加えた「CAP療法」と比較する「クリニカル・トライアル」であったが、女性にはその旨説明なし。CPもCAPも既に確立された治療法であって比較臨床試験は科学的に無意味。しかもこの「トライアル」は、高用量のCPないしCAP療法によって減少した白血球を中外製薬の新薬「ノイトロジン」によって回復させる市販後調査のために行われていた疑いあり。患者は98年12月に死去、遺族が、(1) 未承諾のまま比較臨床試験の被験者にされたことにより「治療方法に関する自己決定権(人格権)」が侵害された、(2) ノイトロジンの臨床試験(市販後調査)という別の目的のために必要以上の高用量の抗癌剤を投与され副作用で著しい身体的苦痛を被った、として、病院を管理する国を相手取り提訴。被告側は、患者の症例登録はすぐに取り消したし、CPは保険適用されている治療法であるため臨床試験ではない、と主張。しかし、当該「クリニカル・トライアル」のプロトコルが存在しており、症例登録票にも「登録可」と明記されていることから、2003年2月17日、金沢地裁は原告の主張(1)を認め、精神的苦痛に対する165万円の損害賠償を認める。被告は控訴。2005年4月13日、名古屋高裁金沢支部は、化学療法は不適切ではなかったとして賠償額を72万円に減額したものの、やはり(1)を認める。被告は判決を受け入れたが、診療行為は医師の裁量で適切に行われたと認定した点などに原告が異を唱え上告。2006年4月、最高裁は遺族の上告を棄却し、2審判決が確定した。
(仲正昌樹・打出喜義・仁木恒夫『「人体実験」と患者の人格権──金沢大学附属病院無断臨床試験訴訟をめぐって』お茶の水書房、2003年;仲正昌樹「『人体実験』とインフォームド・コンセントの法理:金沢大学医学部附属病院無断臨床試験訴訟を素材として」『金沢法学』46 (1) [2003.11] pp.73-136;仲正昌樹「医事訴訟におけるQOLと『自己決定』──金沢大学医学部附属病院無断臨床試験訴訟を起点として」『金沢法学』46(2) [2004.3] pp.69-114)


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