今回は、近代医学における実験の必要性と正当性を説いた古典としてしばしば取り上げられる、クロード・ベルナールの『実験医学研究序説』(邦訳『実験医学序説』三浦岱栄訳、岩波文庫、1938年、改訳1970年)を読みながら、近代医学と実験、とりわけ人体実験との関わりについて考えてみます。

●『実験医学研究序説』

 クロード・ベルナールは1813年に東部フランスのサン・ジュリアンという村の農家に生まれました。21歳のときに劇作家を志してパリに出てきましたが、持参した史劇の原稿を読んだ文芸評論家の忠告に従い、医学の道へ進み、生理学者マジャンディの弟子となりました。胃液に関する研究で学位を得てから、膵液の消化作用の研究で学会における地位を確立し、マジャンディの後任としてコレージュ・ド・フランスの教授に就任しています。その後、1840年代から50年代にかけて、肝臓のグリコーゲンの発見、血管収縮神経の発見、毒物クラーレの作用の研究など、めざましい業績を上げています。1860年に健康を害して故郷に帰り、約2年にわたって静養する間に書かれたのが『実験医学研究序説』(原著1865年)です。
 この著作は今から145年前に公刊されたものですから、科学的事実に関しては時代遅れの面もあります。しかし近代医学の考え方とその方法を端的に表明している点で現在なお貴重な著作であり、近代医学の本質を理解するためには格好の書といえます。また、人体実験や動物実験の倫理に関してまとまった見解を記している点でもきわめて重要で、その箇所は医療倫理学の基本文献として、しばしば引用されています。

●実験医学の必要性

 科学は、単に観察を行うだけでなく、実験を行うことによって確立する、とベルナールは考えました。人体の構造や機能をよく調べもせずに治療を行ってきた観念的な伝統的医学(ベルナールの言う「哲学的体系医学」)に代わり、医学は科学にならなければなりません。しかも医学は、単に観察に基づく医学(観察医学)ではなく、実験に基づく医学(実験医学)になるべきだ、とベルナールは主張します。
 しかしながら、実験とはそもそもどういうことでしょうか。観察と実験とは、どのような点が違うのでしょうか。
 ベルナールは「 観察は自然現象そのままの探究であり、 実験は、探究者によって変化させられた現象の探究である」(邦訳『実験医学序説』p.35、強調は原文のまま【以下同様】*)といいます。すなわち、観察が所与の自然現象を受動的に探究するのに対して、実験は自然に能動的に働きかけて、人為的に変化を加えた現象を探究するのです。

*以下、同書からの引用は邦訳のページ数のみ記します。ただし訳文は英訳 An Introduction to the Study of Experimental Medicine, translated by Henry C. Greene, Dover, 1957 を参照して多少変える場合があります。

「我々は 観察家という名称を、自らは変化させることなく、したがって自然が彼に示すままに蒐集した現象の研究に、単純または複雑な探究方法を応用する人に対して与える。 実験家という名称は、自然現象を変化させたり、何らかの目的をもってそれらを変え、自然が彼に提供しなかったような環境や条件において自然現象を出現させるために、単純または複雑な探究方法を応用する人に対して与える。」(35)

 医学はそれまで、臨床的観察に基づく観察医学でした。観察医学は、病気の経過や結末を予知することはできますが、直接病気に干渉することはせず、自然治癒を待ちます。これに対して実験医学は、病気という自然現象を調節ないし変更して治すことを目指します。しかも、その治療法は、行き当たりばったりの経験の積み重ねに基づくのではなく、生物の法則の正確な理解に基づかなければなりません。そして、生物の法則の正確な理解をもたらすのが、探究の方法として実験を用いる生理学です。
 実験医学は、生理学と病理学と治療学の三部門からなります。生理学は健康時における生命現象の原因を、病理学は病気の原因を、治療学はどうやったら病気が治るかを、それぞれ解明します。この中で基礎になるのが生理学です。というのは、正常な状態がどういうものかを知らなければ、病的な状態がどういうもので、どうやったら治るのか、知りようもないからです。

 もっとも、ベルナールの時代の生理学は、まだ病理学や治療学の完全な説明を与えるところまでは発展していませんでした。そのためベルナールは、観察医学や経験に基づく医学(経験医学)を排斥せず、ただ実験医学を、観察医学や経験医学の成果に科学的な説明を与えるものと位置づけています。

「実験生理学は実験医学の本来の基礎となるのであるが、患者の観察を禁じるわけでもなく、またその大切なことを軽んじるものでもない。それどころか生理学の知識は、単に疾病を説明するために必要欠くことができないのみでなく、良い臨床的観察をするためにも必要なのである。」(323-324)

 以上のように実験医学の必要性を説くベルナールの口調は、しばしばプロパガンダのような熱気を帯びています。1865年といえばパスツールの研究によって細菌学がようやく産声をあげたばかりの時期ですから、ベルナールの『実験医学研究序説』は、台頭しつつあるがまだ確立するには至っていない近代医学の方法を高らかに謳い上げた「宣言」のような性格を色濃く持っているといえます。観念的な哲学的体系医学をきびしく排撃する一方で、観察医学や経験医学とは妥協しながら、それらを基礎づける地位を実験医学に配する、といったベルナールの姿勢からは、19世紀後半の医学諸学派の勢力関係も窺われて、なかなか興味深いものがあります。

●ベルナールの生命観

 ベルナールの時代には《生物は神秘的な「生命力」をもつ点で無生物とは異なっており、それゆえ無生物には実験的方法を用いることはできても生物に実験的方法を用いることはできない》とする考え方(生気論)が根強く残っていました。生物は自発性をもちますが、無生物は自発性を欠いています。自発性を欠いているがゆえに、無生物の性質は、周囲の物理化学的条件に従属しています。ですが生気論によれば、生物の自発性の源である生命力は物理化学的な力とはまったく別のものであり、生物は物理化学的な法則とは別種の法則に従い、実験を行えば即座に生命の特徴は失われてしまう、というのです。
 このような生気論を、ベルナールは徹底的に否定します。彼は《あらゆる自然現象は特定の物理化学的条件のもとに発現したり存在するものであって、その条件を変化させれば現象も変化させることができ、そうして自然現象を支配できる》と考えています。すなわち《すべての自然現象は特定の物理化学的条件が原因(「現象の近接原因【直接の原因】」)となって因果的に決定されている》と考えるわけで、これをベルナールは「デテルミニスム【決定論】」と呼びます。
 この「デテルミニスム」こそ「科学」すなわち近代科学の本質的な考え方であり、生物に関しても無生物と同じように、事物の間には完全で必然的な関係があると固く 信じていなければなりません。それが科学者たる実験家の条件なのです。

「科学の目的は至るところ同一である。即ち現象の物質的条件を知ることである。」(115)
生物においても、無生物におけると同様に、すべての現象の存在条件は絶対的に決定されているということを実験学の公理として、まず承認しなければならない。換言すれば、ある現象の条件が一旦知られ、また実現されるならば、その後この現象は実験家の意のままにつねに必然的に作り出されなければならない。この命題を否定するならば、それは取りも直さず科学自身を否定することになるだろう。」(115-116)

 もっとも、我々は自然現象のすべての因果関係を突き止めているわけではありません。ですから、デテルミニスムの正しさはすでに証明されているわけではなく、むしろこれから証明すべきものです。デテルミニスムとは、それが正しいものとして探究を続け、その正しさを漸次証明して行くべき《方法論的要請》なのです。科学者はデテルミニスムを「固く信じていなければならない」というのは、そういう意味です。
 そして、デテルミニスムを証明する方法こそ、実験にほかなりません。上に述べたように実験とはまさしく、近接原因である物理化学的条件を変化させて、人為的に現象を発現させることだからです。

 また、科学は「いかにして【how】」その事物が生じるかという「近接原因」を探究するだけであって、「何故に【why】」その事物が生じるのかという「第一原因」を知ろうとするものではありません。自然現象の「第一原因」や「本態」ないし「本質」は、古来、哲学(とりわけ形而上学)や宗教が探究してきたものですが、ベルナールはこうしたものは「永遠に我々に知られないだろうということのみが真理である」(137) と断言しています。彼が一貫して「哲学的体系医学」を排斥するのは、それが我々には決して知り得ない「第一原因」や「本質」の不毛な探究にうつつをぬかしてきたと考えるからでもあるのです。
 もっとも、今日私たちはすでに「デテルミニスム」を柱とする近代自然科学の思考法にどっぷり浸かっていて、ふつう「原因」といえば「近接原因」のことを指すので、ベルナールの上記の批判の意味はわかりにくいかもしれません。
 たとえば、ある伝染病にかかったとき、その「原因」は、伝染病の病原体が体内に入ったためであるとか、免疫力が低下していたためである、というふうに私たちは考えます。しかし、こうした科学的な原因論は、その病気が「いかにして」発病するに至ったかを説明することはできても、「なぜ」 よりによってこの私の体内に病原体が入ったのかとか、「なぜ」私は よりによってこの時期に免疫力を低下させるような生活をしてしまったのか、といったことについては、ただ「偶然」としか説明できません。しかし、今日科学が単に「偶然」としか説明しないことも、何らかの「原因」に基づく必然的な結果として説明しようとする「原因論」が、大昔から伝統的に存在してきました。近代科学はこの種の(「第一原因」を追求する)原因論を排斥してきたので、それは今日では形而上学や宗教の領域にしか残されていませんが、19世紀後半ではまだ「原因」といえば「第一原因」のことを思い浮かべる人が少なくなかったので、ベルナールはわざわざ「近接原因」という言葉遣いをしているのです。
 もっとも、今日、最先端の科学教育を受けた科学者が新新宗教に走ったりするのをみると、近代の科学的教育が「何故に【why】」という問いを考えるに値しない問いだと切り捨ててきたことが、教育から形而上学や宗教を排斥する結果をもたらし、かえって似非宗教への免疫力を失わせたのではないか、といいたくなります。しかし、それはともかくとして、少なくともベルナールは、科学的認識の本質と限界を正しく洞察していたといえます。

 生気論に説得力をもたせている生物の自発性は、単細胞生物のような下等動物にはみられません。下等動物の生命は外界の物理化学的条件に大きく影響を受けます。また、恒温動物はたしかに内在的な力によって生命を維持しているようにみえますが、これも恒温動物の内的環境が外的環境の影響をそのまま受けるわけではないというだけであって、外的環境との間には代謝などの関係があるし、内的環境はやはり物理化学的条件によって定まっているのです。ですから、生物のデテルミニスムを探究するときには、その内的環境に注意深く配慮する必要はあるものの、探究方法としては実験という同一の方法を用いればよいということになります。

「我々が自然現象の確定的基礎的条件を認識するに至るには、ただ一つの道しかない。即ち 実験的分析によってである。」(123)

かくしてベルナールは生理学を「生物現象を研究し、その現象の発現に関する物質的条件を 決定することを目的とする科学」と定義します(112)。
 また科学者にとっては、自然法則というのはただ発見するだけのものであって、創造するものではけっしてありません。自然法則そのものは誰にも変更できないものであり、ただ従うことしかできません。実験家といえども、その例外ではないのです。

●「生体解剖」----人体実験と動物実験について

 ところで、生物現象を発現させる物理化学的条件を知るためには、単に生物を外側から観察しているだけでは不十分です。上述のように生物に実験を行うにしても、生物体の内部にどのような現象が生じているのか、そしてその近接原因は何か、を知らなければなりません。そのためには生物体を解体して内部を見ること、すなわち、解剖が必要になります。しかもそれは死んだ生物の体(屍体)ではなく、生きている生物の体(生体)に対して行わなければなりません。

「生物の神秘的な内部を暴露し、その機能を見るためには、まず屍体について解剖した後に、今度はさらに必ず生体に対しても解剖を行わなければならない。」(165)

つまり、文字通りの「生体解剖」が、実験医学にとっては不可欠なのです。生体解剖という研究方法がなければ「生理学も実験医学も成立は到底不可能」(165) なのです。
 医学はすでに大昔から生体解剖を行ってきました。ベルナールは、歴史上のさまざまな実例、とりわけ死刑囚や罪人に対する実験や生体解剖の例を挙げています。そして、実験や生体解剖を、まず人間について行ってよいかどうかを問います。彼の答えは次のようなものです。

「内科医は病人について毎日治療的実験を行い、外科医もまた被手術者について毎日生体解剖を実行している。したがって人間についてもたしかに実験することができるといわねばならぬ。」(167)

 しかし、人間に対して実験や生体解剖を行うことができるといっても、それはどの程度まで可能なのでしょうか。

「我々は人の生命を救うとか病気をなおすとか、その他その人の利益となる場合には、何時でも人間について実験を行う義務があり、したがってまた権利もある。内科及び外科における道徳の原理は、たとえその結果が如何に科学にとって有益であろうと、即ち他人の健康のために有益であろうと、その人にとっては害にのみなるような実験を、決して人間において実行しないということである。しかしながらそれを受ける患者の利益になるようにという見地に立ってつねに実験したり、或いは手術をしたりしつつ、同時にこれを科学のために利用することは少しも差し支えない。実際またこのようにすることは当然である。」(167-168)

要するに、患者や被験者の利益になるような実験をすることはかまわないが、患者や被験者に害を与えるだけの実験は、たとえ科学や人々の健康にとっていかに有益であろうとも、決して行ってはいけない、ということです。前回の講義で紹介した「治療的実験」と「非治療的実験」の区別がここにも見られます。
 ところで、死刑囚に対する実験や生体解剖はどうでしょうか。ベルナールは、危険な手術の代わりに赦免を得るのは「近代的道徳思想」の認めるところではないし、彼自身もこうした道徳思想に同意しながらも「罪人が斬首になった直後に、生体組織の性質について研究することは、科学にとって極わめて有益なことであり、また完全に許されることでもあると思う」(168) と書きます。のみならず、死刑囚や瀕死の肺病患者にひそかに寄生虫を飲ませたりする実験についても「この種の実験は科学にとって極わめて興味があり、同時にまた人間についての確実なことが言えるのであるから、実験を受ける人に対して何らの苦痛を与えず、何らの不都合をもひき起こさない限り、十分許されてよいように思う」(169) と言っています。
 以上、人体実験についてまとめると、次のようになります。

「人間について試みることのできる実験の中で、ただ害のみを生ずるようなものは禁ずべく、無害のものは許さるべく、有益なものは奨励さるべきである。」(169)

 では、動物に対する実験や生体解剖についてはどうでしょうか。私たちは動物実験や動物の生体解剖をする権利をもっているでしょうか。

「私一人の考えでは絶対にこの権利があると思う。一方においては各種の日常生活の用のために、或いは家畜用として或いは食料品として動物を用いる権利があるのに、他方においては人類のために最も有益な科学の一つにおいてこれを研究に供することを禁じているとしたら、これは実際極わめて不合理のことと言わねばならない。何もここで躊躇している必要はない。生命の科学は実験によってのみ築き上げることができるのである。」(169)

このようにベルナールは、動物実験や動物の生体解剖を行うことはまったく問題がないといいます。動物実験を行わずにいきなり人体実験を行うことについてもきわめて批判的です。

「我々は先ず他のものを犠牲にした後ではじめて、生物の死を救うことができる。人間についても十分実験を行わねばならぬことは当然である。ところが残念なことに、医者はしばしば先ず動物について用意周到な研究を完了する前に、人間に対して危険な実験を最初から行っている。多少危険性のある治療薬または激しい医薬をあらかじめ犬について実験を行うことなしに、直ちにこれを病院内の患者に施すことが道徳的であるとは、どうしても私は認めることができない。何となれば、我々が動物において得るところの成績は、正しく実験することさえ知っておれば、人間についてもまた確実であるということを私は後で証明する筈であるから。したがってその結果がたとえ他の人にとって有益であろうと、彼自身にとっては危険である以上、人間について実験することは不道徳的であると考えなければならないが、動物について実験をする場合は、いかに動物にとって苦痛であり、また危険であろうと、人間にとって有益である限り、あくまで道徳にかなっているのである。」(169-170)

 動物愛護派の人々から寄せられる動物実験反対の声については「いわゆる俗人の発する感情の叫び」「科学的発想に無理解な人たちがするところの抗議」に動かされる必要はない、といいます。世間は科学的思想によって動いているわけではなく、生体解剖の必要性についても理解できないが、科学者たる生理学者は、こうした科学に対する無理解に煩わされる必要はない、というのです。

「思想の相違ということがすべてを説明している。生理学者は世俗人ではない。彼は科学者である。自分が追求する科学的思想に専心没頭しているところの人間である。」(171)
「すべての人を満足させることは到底不可能なのであるから、学者は自分を理解する学者の意見についてのみ顧慮し、各自の良心から行為の規範を引き出せばよいのである。」(172)

このように、科学と社会の関係に関しては、ベルナールは科学者の先進性と特権性を確信しており、また科学者が社会に対して弁明する必要はない、と、科学者集団の中に閉じこもる姿勢を示しています。このような姿勢が、今日の科学者や医学者と共通していることもまた明らかです。

●実験医学がもたらしたもの

 ベルナールが構想した実験医学は、今日に至るまで近代医学の基本的な方法論的前提となっています。とりわけ、遺伝子の物理化学的構造がDNAとして明らかにされて以来急速に発展してきている「遺伝子医療」(遺伝子診断や遺伝子治療など)は、病気の原因をDNAの物理化学的構造の変化に求める点で、まさしくベルナールの「デテルミニスム」の王道を歩んでいます。人間のすべてのDNAの構造を解明する巨大な「ヒト・ゲノム・プロジェクト」が推進されているのも、それが「デテルミニスム」に基づく医療の実現に大きく貢献すると考えられているからにほかなりません。
 しかし、ベルナールが「生体解剖」についてかなり詳細に言及しなければならなかったことは、科学性の追求のために人間を実験台としなければならないという近代医学のディレンマを、すでに明確に表しています。もっとも《近代医学以前の「哲学的体系医学」や「経験医学」は、単なる試行錯誤のために患者を実験台にしてきたではないか、それに比べれば科学的な人体実験のほうがまだましではないか》という考え方も当然あるでしょう。しかしながら「科学の発展のため」という理由、そして(科学の発展が本当に人類の幸福につながるのなら)「人類の幸福のため」という理由ならば、人間を実験台にすることは正当化できるのでしょうか?もし正当化できるというならば、それはどのような条件の下ででしょうか?このようなことを考えながら、次回からはしばらく、20世紀における人体実験の歴史的事実を調べていくことにしましょう。

●今月のテキスト
クロード・ベルナール『実験医学序説』三浦岱栄訳、岩波文庫、1938年、改訳1970年、¥760

●練習問題
(1)《医学は実験医学に基づかなければならない》というベルナールの主張を批判的に検討しましょう。たとえば、《近代医療は病気ばかりをみて病人をみなくなった。医療は病気を治すことよりも、まず患者を癒すことを目的とすべきだ》といった立場から考えるとどうでしょうか?

(2) 人体実験に関するベルナールの考えを批判的に検討しましょう。「人間について試みることのできる実験の中で、ただ害のみを生ずるようなものは禁ずべく、無害のものは許さるべく、有益なものは奨励さるべきである」という彼の主張は、人体実験を行う上での必要にして十分な条件になっているといえるでしょうか?

(3) 動物実験に関するベルナールの見解を批判的に検討しましょう。「動物について実験をする場合は、いかに動物にとって苦痛であり、また危険であろうと、人間にとって有益である限り、あくまで道徳にかなっている」という彼の考えに同意できますか?もし同意できないとすれば、それはどのような理由からですか?

(4) 科学者と社会の関係についてのベルナールの考えを検討しましょう。「すべての人を満足させることは到底不可能なのであるから、学者は自分を理解する学者の意見についてのみ顧慮し、各自の良心から行為の規範を引き出せばよいのである」という見解について、問題点はないでしょうか?


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