ところで、今日一般に「倫理学理論」(3)とされているものには、義務論 deontology、帰結主義 consequentialism(利己主義 egoism、功利主義 utilitarianismなどを含む)、共同体主義 communitarianism、徳倫理学 virtue ethics、ケア倫理学 care ethics、決疑論 casuistry などがある。これらは、倫理学の概説書などでは横並びにして解説されることが多いが、筆者は、これらの理論を「主にどのような問い(要請、課題)に応えようとして生まれ彫琢されてきたか」に着目して整理すれば、それぞれの特徴と役割が明確になると考える。その問いとは、

 (1) どうやって「正しい」行為を見出すか?(発見の方法)
 (2)「正しい」とされる行為は、なぜ「正しい」といえるのか?(「正当化」)
 (3)「正しい」ということはどのようにして生じるのか?(起源の説明)
 (4) どうやって「正しい」行為をするよう[な人]にするか?(動機付け、教育)
 (5)「正しい」行為を実際の場面でどのように実行すべきか?(実践上の注意)

の5つである。
 以下、それぞれの問いに対応する倫理学理論を挙げる。それにより、これらの諸理論のいくつかは相補的な関係にあることも明らかになるだろう。

(1) どうやって「正しい」行為を見出すか?(発見の方法)
 この問いに応えようとする倫理学理論には「決疑論 casuistry」(4)や「事例に基づく方法」がある。決疑論は元来、そこでなすべき行為が簡単には判断できないような難しいディレンマを含む事例について考察するという、西洋倫理学で伝統的に行われてきた方法である。その方法に倣い、現実の状況か、あるいは重要な点を強調した架空の状況を「事例」として記述し分析するのは、一般に「事例に基づく方法 case based approach」とか「事例法 case method」と呼ばれている。事例に基づく方法は、「現実のトピック」を「現場」で体験している当事者(医療倫理学における医師や看護師、ビジネス倫理学における経営者や管理職、工学倫理学における技術者、教育倫理学における教師、行動科学倫理学における心理学者、社会科学倫理学における社会学者・人類学者など)にとっては、倫理学の理論や学説史についての抽象的な解説から始めるよりも、実際的で関心を抱きやすいことから、教育や研究の方法として広く採用されている。また、この方法を用いる医療倫理学はとくに「臨床倫理学 clinical ethics」(5)と呼ばれている。
 事例に基づく方法は、事例に即して「正しい」行為を見出そうとする方法であるから、直接に「現実の問題」への回答を試みる狭義の応用倫理学に適している。「現場」の当事者に支持されている理由もそこにある。ただし、事例に基づく方法は、それだけでは、見出された行為が「正しい」ことを、理由や基準を示して根拠づける(「正当化」する)ことができない。事例に基づく方法によって見出された行為は、そのままでは単に直観的に「正しい」としかいいようがない。もちろんそれは、他の類似する事例にも当てはまるような普遍性をもつ、考え抜かれた判断(「熟慮された判断 considered judgment」)でなければならないが、その根拠づけ(正当化)は、次に述べる正当化理論に依らざるを得ない。すなわち、事例に基づく方法はあくまでも、方法についての理論(方法論)である。

(2)「正しい」とされる行為は、なぜ「正しい」といえるのか?(「正当化」)
 この問いは、行為の「正当化」を求める問いである。倫理学用語としての「正当化justification」とは、日常用語にみられる「常識的に判断すれば妥当でないとみなされる規範や行動を、理屈をこねてむりやり正当なものとする」という否定的な意味はなく、ただ「“正しい”といえる理由や根拠を説明する」という中立的な意味で用いられる。
 伝統的に倫理学は、あらゆる「正しい」行為を理由づけ、「正しさ」の基準を提供する、究極的な「原理」の探究を、その主たる仕事の1つとしてきた。そのような「原理」が見出せたなら、すべての個別の「正しい」「よい」「すべき」(あるいは「間違っている」「わるい」「すべきでない」)などという判断を理由づけることができるし、判断を修正し「正しい」判断を求めていく際の拠り所が得られることになる。また、その「原理」をつねに念頭に置くことで、我々の生き方や、組織の決定や、政府の政策は、間違いのない首尾一貫したものになっていくと期待できる。
 西洋の倫理学において、こうした「正当化」の問いに応えようとして提案されてきた理論のうち、「原理」を1つだけに絞り込むことができると考えるもの(一元主義理論)に、義務論(とくにカントの理論)や帰結主義がある。帰結主義の主なものには、利己主義と功利主義がある。
 また、「原理」を1つに絞り込まず複数併存させる多元主義理論もある。これには、さまざまな「一応の義務 prima facie duties」を立てるW. D. ロスの理論(6)や、2つの義務論的原理(「自律を尊重せよ」「公平に扱え」)と2つの功利主義的原理(「害をなすな」「利益を最大化せよ」)から成る4つの原理を併用するビーチャムとチルドレスの医療倫理学理論(7)(しばしば揶揄気味に「原理主義 principlism」と呼ばれる)などがある。
 正当化を行う倫理学理論がもっとも必要とされるのは、すでに行われた行為の是非を判断する場面である。この場面に似ているのが裁判である。裁判では、ある事例における特定の行為が、なぜ「違法」(あるいは「不法」や「可罰性がある」など)といえるのか(あるいはいえないのか)が、証拠や実定法や過去の判決例などをよりどころに検討され判断される。倫理学において行為の是非を判断する場合に、裁判における実定法や判決例の役割を果たすのが、抽象的な「原理」および原理から導き出される具体的な「規則」である。「原理」は憲法に、「規則」は憲法以外の実定法や判決例に、それぞれ対応するだろう。
 だが、正当化の理論は、実際の場面で何が「正しい」行為かを見出すための方法としては機能しない。正当化の理論は、見出された行為の候補について「正しさ」を検証する基準を提供するだけで、正しい行為そのものを発見する方法にはならない。
 また、「正しさ」というものはなぜ生じているのかという「起源の説明」や、いかにして「正しい」行為を行う人を育てるかという「(道徳)教育」、実際の場面でどのように「正しい」行為を行うべきかという「実践上の注意」などについても、正当化の理論はそれだけでは役に立たない。したがって、正当化の理論さえ提示できれば、倫理学に要請される課題がすべて果たせるというわけではない。だが、そもそも正当化の理論がなければ、何がどうして「正しい」といえるのかの理由や基準を示すことができない。それゆえ、正当化の理論は倫理学にとって、決して欠くことのできない主要な柱である。

(3)「正しい」ということはどのようにして生じるのか?(起源の説明)
 この問いは、「正しい」ということがなぜ人間にとって必要なのか、「正しい」という観念はどこからどのようにして生じてくるのか、といった、起源に関する問いである。この問いに応えようとする理論が、「“正しさ”は人間の生まれ育つ共同体において共有されている」という共同体主義や、「“正しさ”は個人個人が各々の生命や財産を他者の侵害から守るために相互に結んだ契約に基づく」という社会契約説や、「“正しさ”とは生物としてのヒトが進化の過程において自らの種(ないしは民族、社会など)を存続させ繁栄させるために用いた戦略の1つである」という進化論的倫理学などである。
 これらの理論はあくまで「正しさ」の起源に関する説明を行う客観的な理論であり、どうして「正しい」といえるのかを根拠づける(正当化する)ことはできない。「共同体において共有されていることが正しいことだ」「契約によって定められたことが正しいことだ」「進化の過程で戦略として選ばれたことが正しいことだ」などと説明してみても、「それは“本当に”“普遍的に”正しいことなのか?」という問いはなお開かれており、共同体の掟や社会契約や生存戦略がどうして「“本当に”“普遍的に”正しい」といえるのかについては、別に正当化の理論が必要になるからである。起源を説明する理論は、「正しい」とされているという現象を客観的に記述しその原因を探るのであって、「正しい」という評価や指図の正当性そのものを根拠づけようとするのではないし、「正しい」ことを発見することも、「正しい」人を育てることも、「正しい」ことを実際に行うための留意事項を示すことも、できない。

(4) どうやって「正しい」行為をするよう[な人]にするか?(動機付け、教育)
 事例に基づく方法によって「正しい」行為を発見し、正当化理論によってそれが「正しい」ことを論証し、説明理論によってその「正しさ」の起源が示されたとしても、実際に「正しい」行為を行うようにしなければ意味がない。そこで、実際に「正しい」行為をするように仕向け(動機付け)、自分や他者を「正しい」行為をする人間にする(教育する)ための理論が必要になる。その際には、「正しい」行為を行うよう意欲づけたり、習慣づけたりすることで、おのずから「正しい」行為を行うような性格を形成していくことが重要である。ここに、おのずと実現に向かうようなすぐれた性質(virtue。徳、卓越性)を身に付けることを強調する「徳倫理学」の出番がある。
 このように、徳倫理学は本質的に教育のための方法論であって、発見のための理論でも正当化理論でも説明理論でもない。徳倫理学は、ある状況下でどのような行為をする性格がすぐれた性格かを見出すためには事例に基づく方法を、その性格がなぜ「すぐれた性格」(卓越性、徳)といえるのかを論証するためには正当化理論を、その性格がどうして「すぐれた性格」とされるようになったのかを説明するためには説明理論を、それぞれ必要とする。

(5)「正しい」行為を実際の場面でどのように実行すべきか?(実践上の注意)
「正しい」行為を実際の場面で実行するには、「正しい」と論証できる行為をただ行いさえすればよいというわけではない。その行為の影響を直接に被る当事者や関係者の事情に配慮(care)しないなら、かえって周囲に被害や迷惑を及ぼしたりして、単独で評価すれば「正しい」はずの行為も、結果として「間違った」行為になってしまうかもしれない。そこで、「正しい」行為の実行に当たっては、当事者や関係者の事情に十分に配慮し、関係する者全員が納得するように注意する必要がある。これが「ケア倫理学 care ethics」の中心的な主張である。ケア倫理学も方法論であるが、一般的な手続き論では捉えきれない、実際の場面での個別的事情まで考慮することを求める。その意味で、一般的な方法論を補完する「実践上の注意」を指示する理論である。
「関係者全員の納得」を得るために個別的具体的な事情まで配慮することの「正しさ」は、正当化理論によって、義務論的にか、あるいは帰結主義的に論証される。義務論的に正当化される場合は「関係者全員の個別的事情を配慮せよ」という命法が妥当なものとみなされる。帰結主義的に正当化される場合は、「関係者全員の個別的事情に配慮することは自分の利益となる」というように利己主義によって根拠づけられたり、「関係者全員の個別的事情に配慮することによって全員の幸福の総量が最大になる」というように功利主義によって根拠づけられたりする。いずれにしても、ケア倫理学は徳倫理学と同様に、正当化理論としては他の理論を必要とする。また、発見の理論としては事例に基づく方法を、起源の説明(どうして関係者全員の事情に配慮することが正しいとされるのか)については説明理論を、それぞれ必要とする。

(註)
(3) 本稿では「倫理学理論」を「“正しい”[よい、すべき、しなければならない、etc.] 行為を、普遍的かつ首尾一貫して、指示ないし根拠づけできるような、原理や規則や方法の体系」と捉えておく。
(4) たとえばJonsen, A. R. & Toulmin, S., The Abuse of Casuistry, University of California Press, 1988.
(5) たとえばJonsen, A. R., Siegler, M., & Winslade, W. J., Clinical Ethics, McGraw-Hill, 7th edition, 2010.(第3版[1992]の邦訳として赤林朗・大井玄監訳『臨床倫理学』新興医学出版社、1997年)
(6) Ross, W. D., The Right and the Good, Oxford University Press, 1930.
(7) Beauchamp, T. L. & Childress, J. F., Principles of Biomedical Ethics, Oxford University Press, 6th edition, 2008.(第5版[2001]の邦訳として立木教夫・足立智孝訳『生命医学倫理』麗澤大学出版会、2009年).


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