「石井機関」の創設者である石井四郎は1920年に京都帝国大学医学部を卒業した。1925年、生物兵器と化学兵器の実戦使用を禁じるジュネーヴ条約が締結されたことで、石井はむしろ生物兵器の可能性に気づき、その研究開発を軍上層部に促すようになる。1930年、2年間の欧米遊学から帰った石井は、陸軍軍医学校の防疫部・防疫学研究室の教官に就任する。石井は、威力ある生物兵器を開発することにより、陸軍内部で冷遇されていた軍医の地位を向上させるとともに、軍の力を借りて、既存の帝国大学医学部などをしのぐ国家的規模の医学研究機関と軍事医学研究ネットワークを築こうとしたといわれる (常石 1994: 19)。その構想の中には、人間をもモルモットのように実験材料として使える秘密施設の建設が含まれていた。

 1931年、関東軍が「満洲事変」を起こして中国東北部を支配下におさめたことで、石井は構想を実現する機会を得た。翌1932年、石井は陸軍軍医学校に「防疫研究室」を設立させる。石井のネットワークの中枢を担ったのはこの防疫研究室であった (悪名高い731部隊は石井機関における主たる人体実験施設であり生物兵器工場であるが、中枢とはいえない)。同時に石井は、ハルビン南東約70km、五常の近くの寒村「背陰河」に、秘密部隊「東郷部隊」を設置する。東郷部隊は731部隊の前身であり、実験材料にされた人々の牢獄を備えた研究施設をもち、1933年秋ころから残虐な人体実験が始められている (常石 1994文庫版: 304)。実験台となったのは主に中国人であるが、ロシア人、モンゴル族、および朝鮮族の人々も含まれていた。彼らはスパイや抗日ゲリラ(「匪賊」)として憲兵隊に捕らえられ、裁判を受けることもなく処刑される運命にあった。石井や東郷部隊の医学者たちは、いずれ処刑されるのなら、医学研究の実験材料として役立ってもらおうと考えたのである。

 しかしながら、背陰河の東郷部隊の施設は、大規模かつ秘密裡に致死的な人体実験を行うには不十分であった。1934年9月には、牢獄に収容されていた16人の人々が暴動を起こし脱走している (中央档案館ほか編 1989、江田ほか編訳『人体実験』松村解説 283-285)。そこで石井と関東軍は背陰河の施設を放棄し、ハルビン南東約15kmの「平房」地区に、より堅固な牢獄と、生物兵器生産施設を備えた、大規模な研究施設群を建設することにする。1935年に周辺の4つの村の住民が強制退去させられて建築が始まり、1938年頃に、専用飛行場、隊員とその家族の宿舎、学校や神社まで備えた一大軍事基地が完成した。

 石井の東郷部隊は、平房の施設が完成する以前の1936年に「関東軍防疫部」(通称名「満洲第731部隊」) として、陸軍の正式な部隊として認められた。これは天皇が形式的にせよ石井のプロジェクトを承認していたことを意味する。関東軍防疫部は1940年8月には「関東軍防疫給水部」と改称する。それは、石井の部隊が1937年の日中戦争本格化以降、石井みずから開発した濾水機によって、中国戦線における給水業務を担うようになったからである。1938年に陸軍は18の「師団防疫給水部」を発足させたが、それらを指導したのは731部隊の幹部たちであった。1939年までに石井のネットワーク(「石井機関」)は、18の師団防疫給水部や関東軍第一野戦病院給水部などの「移動防疫機関」と、5つの「固定防疫機関」(ハルビンの関東軍防疫給水部 [731部隊]、北京の北支那派遣軍防疫給水部 [1855部隊]、南京の中支那派遣軍防疫給水部 [1644部隊]、広州の南支那派遣軍防疫給水部 [8604部隊]、それに東京の陸軍軍医学校防疫研究室) を有するようになり、これらの機関を合わせた人員は1万人を超えた。太平洋戦争開戦後、シンガポールを占領した陸軍は、そこに固定防疫給水機関として南方軍防疫給水部 [9420部隊] を設置した。また、731部隊(関東軍防疫給水部)はそれ自体で野外実験場(ハルビン北西約150kmの安達に設置)と5つの支部(牡丹江、林口、孫呉、海拉爾、大連に設置)を持っていた。

 さらに、石井は軍医のリーダーとして、中国各地の陸軍病院などにも影響力を持っていた。石井機関はまた、主に家畜類を対象とする生物兵器を開発していた関東軍軍獣防疫廠 [100部隊、所在地は長春] や、化学兵器開発を行っていた陸軍第6研究所・陸軍習志野学校・陸軍第9技術研究所 [登戸研究所] および関東軍化学部 [516部隊、所在地はチチハル] などの機関とも密接な関係にあった。

 731部隊は1938年頃に、新しく完成した平房の施設に移った。平房の周囲計80平方キロが特別軍事区域に指定されており、とくに本部を中心とした約6平方キロメートルの地域は、土塀と高圧電線と堀に囲まれ、許可なく立ち入ろうとする者は衛兵に狙撃された。主たる研究実験施設であり生物兵器工場はその形状から「ロ号棟」と呼ばれ、実験材料にされた人々を収容した2つの「特設監獄」は中庭に設けられていたので、たとえ彼らが牢から脱出しても外に出られないようになっていた。彼らは「マルタ」と呼ばれ、姓名ではなく単に番号で呼ばれていた。川島清・731部隊製造部長(軍医少将)は、後述する「ハバロフスク裁判」における訊問で、特設監獄の収容人数について「200名カラ300名迄デスガ、400名デモ収容スルコトハ出来マシタ」と述べ、その中には女性や子供も含まれていたと認めている (公判書類 1950: 303)。これらの人々は憲兵隊によって731部隊に送られてきていたが、その手続きは「特移扱」と呼ばれ、軍が実験材料となる人を調達するために特別に定めたものであった。川島によると、731部隊には「1年間ニ約400名カラ600名迄」の人が実験材料として送り込まれていた (同: 304) が、生きて帰れた人は1人もいない。こうして731部隊では、1940年から45年までの間に「少クトモ3000名」が犠牲になったことになる (同: 157)。しかしこの数字は、1939年以前の東郷部隊で「マルタ」にされ殺害された人々の数は含んでいない。しかも、731部隊における人体実験による虐殺は、この時期に日本が行った医学的虐殺の一部でしかない。致死的な人体実験は南京の1644部隊や北京の1855部隊でも行われていたという多くの証言がある。また、米軍とオーストラリア軍の調査資料は、現パプア・ニューギニアのラバウルで、第24野戦防疫給水部の平野英之助軍医大尉が、米国・オーストラリア・ニュージーランドの捕虜を実験材料にしたことを明らかにしている (田中 1994; Tanaka 1996)。

 1945年8月8日にソ連が日本に宣戦布告し「満洲」に攻め込むと、石井機関は崩壊した。陸軍は直ちに、人体実験を行っていたすべての機関を中国から撤退させ、医学犯罪の証拠隠滅を図る。731部隊では、生き残っていた「マルタ」はすべて殺され、遺体は焼かれ、骨は松花江に捨てられた。施設の建物、とくにロ号棟と特設監獄は徹底的に破壊された。幹部の軍医、医学者、隊員たちは一部を除き、特別に仕立てられた列車と船で、家族とともに本土へ逃げ帰った。東京の防疫研究室はすでに1945年3月と5月の空襲によって破壊されていたが、石井たちは生物兵器の科学データを注意深く保管していた。

 しかしながら、1945年8月15日に日本が無条件降伏した後、連合国最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) は戦時中に行われた医学犯罪を追及しようとはしなかった。米軍は、化学兵器と生物兵器の研究開発を担当する「米国陸軍化学戦部隊 the U.S. Army Chemical Corps」(メリーランド州フレデリックのキャンプ・デトリック[後のフォート・デトリック]に設置)の研究者を日本へ派遣し、石井機関で医学者たちが蓄積した生物兵器のデータを得ようとした。それは、米国が生物兵器の研究を始めたのが1942年であり、第2次大戦末からソ連との対立状況が明確になる中で、1928年から同研究に着手していたソ連に何とか追いつく必要があったからである (常石 1995, Regis 1999)。1945年9月、最初に来日した調査官であるマレー・サンダース軍医中佐は、マッカーサー最高司令官とその腹心の情報担当参謀副長チャールズ・ウィロビー少将に対し、石井とその部下の医学者たちに戦犯免責を与えるよう求めている。免責が確約されて石井たちはデータの一部を提供したが、サンダースとその後任者アーヴォ・トンプソン獣医中佐には、これらのデータが人体実験によって得られたことを隠し通した。米国は人体実験が行われたのではないかと疑っていたが、1946年末まではその証拠をつかむことができなかった。

 1947年1月初め、ソ連はGHQに対し、石井や石井機関の医学者たちの身柄を引き渡すよう求める。ソ連は捕虜とした石井機関の幹部数人を尋問して、致死的な人体実験が行われていたことをつかんでいた。だが、ソ連も石井機関による生物兵器研究のデータを入手しようとしたのであり、もし米国がこれらのデータを独占しようとするなら石井たちを極東軍事裁判(東京裁判)にかける、と米国に揺さぶりをかけた。もし東京裁判で石井たちの医学犯罪が追及されれば、生物兵器の研究データの存在も明るみに出て、米国がそれを独占することはできなくなる。しかしながら米国はこのソ連の要求をはねつけるとともに、改めて石井たちを詳しく尋問しなおした。結局ソ連はデータを入手できなかっただけでなく、米国が東京裁判をコントロールしていたため、石井たちを東京裁判で訴追することもできずに終わった。

 こうして、ソ連の要求を通して米国はようやく人体実験による虐殺が行われていた証拠をつかんだのだが、すでに石井たちに与えた戦犯免責が厄介な問題となる。米国は、ナチス・ドイツを裁いたニュルンベルク国際軍事法廷で、残虐な人体実験を行ったかどでナチスの医師たちを追及していた。その一方で、石井機関の医師たちに対しては、生物兵器のデータを得るために、秘かに戦犯免責を与えた。こうした二枚舌ともいえる姿勢は、もし公になったら国際社会から厳しく糾弾されるにちがいない。マッカーサーのGHQはこの危惧について本国政府と何度も話し合ったが、最終的に米国政府は次のように結論する。

a. 日本の生物戦研究の情報はアメリカの生物戦研究プログラムにとって大きな価値があるだろう。
b.【略】
c. アメリカにとって日本の生物戦データの価値は国家の安全にとって非常に重要で、「戦犯」訴追よりはるかに重要である。
d. 国家の安全のためには、日本の生物戦専門家を「戦犯」裁判にかけて、その情報を他国が入手できるようにすることは、得策ではない。
e. 日本人から得られた生物戦の情報は情報チャンネルに留め置くべきであり、「戦犯」の証拠として使用すべきではない。
(State-War-Navy Coordinating Subcommittee for the Far East 1947. 常石編訳 1984: 416)

この結論は、再尋問によって石井たちがようやく提供した人体実験のデータを詳細に検討した上で下されたものであった。最後の調査にあたったエドウィン・V・ヒル(化学戦部隊基礎科学部主任)は次のように書いている。

今回の調査で集められた事実はこの分野におけるこれまでの見通しを大いに補いまた補強するものである。このデータは日本人科学者たちが巨額の費用と長い年月をかけて得たものである。情報は、人間について各病原体毎の感染に必要な各細菌の量に関するものである。こうした情報は人体実験に対するためらいがあり、われわれの研究室で得ることはできない。これらデータを入手するのに今日まで要した費用は総額25万円で、これはこれら研究の実際の価値と比べれば取るに足らない額である。
(Hill 1947. 常石 1984文庫版: 280-281)

 こうして、石井本人も、残虐な人体実験を行った医学者たちも、罪に問われることはなかった。石井機関の軍医や医学者たちの多くは、大学医学部や国立研究所や各地の病院に職を得た。開業した者や、製薬会社を設立した者もいる (詳しくは Williams & Wallace 1989, Chap.17を参照のこと)。石井自身は職に就かず、1959年に喉頭癌のため67歳で死去している。

 ソ連は石井の身柄を確保することもデータを得ることもできなかったが、1949年12月にハバロフスクで、捕虜とした12人の将校や兵士を公開の軍事法廷で裁いた (公判書類 1950)。被告の中には、関東軍司令官であった山田乙三陸軍大将、6人の軍医将校、2人の獣医将校が含まれている。彼らは2年から25年の矯正労働を言い渡されたが、ソ連が日本と国交を回復した1956年には刑期途中の者も、病死した者と自殺した者を除き、全員帰国した。ソ連はハバロフスク裁判で大日本帝国による医学的虐殺の事実を世界中に知らしめようとしたが、検事団も弁護団も裁判官もすべてソ連人であり、外国のメディアの記者も取材していなかったので、国際的注目を浴びることはほとんどなかった。米国はハバロフスク裁判のニュースを共産主義者の宣伝として否定した。一方、最大の被害国である中国は、中華人民共和国成立後の1956年になってようやく日本の戦犯を裁く軍事法廷を開いたが、石井機関関係者の被告は731部隊林口支部長であった榊原秀夫・軍医少佐ひとりしか含まれていない。死刑判決を受けた被告はなく、全員1964年までに帰国した。中国は当時、戦犯を罰することよりも、国際社会への復帰を優先したのである。


文献一覧

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参考資料

1999年度大阪市立大学インターネット講座「人体実験の倫理学」第4回 日本軍による人体実験

日本生命倫理学会第20回年次大会(2008年11月29日、九州大学医学部)
大会企画シンポジウム1「戦争と研究倫理」報告
「戦時下における医学研究倫理──戦争は倫理を転倒させるのか」スライド


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