第5回 ロバート・フロスト
 
 さて、今年の夏も終わり、阪神タイガースもめでたく優勝し、もうすぐ大学の秋学期(後期)も始まる時期になって、ようやく全部で12回の講義の半ばに到達する、というのは実は予定より大幅な遅れを認めることでありますが(9月に入り、夏の不摂生がたたり、体調を壊していたのがその理由の一つであります)、あまりにも厳しい残暑が続くと、とても勉学に勤しむというよりは、もうどこかへ秋の旅行などしたくなるというものです。講義を始める言葉としては相応しくありませんが、実におそらく北海道以外の日本の9月は、北米の9月と違い、"Fall Season"到来で "Back to School!" という気持ちの良い季節ではないのが実情ですよね。でも、New Hampshire州に住み、美しい枯葉とともに新学期が始まる(かつて19世紀には、今日でもファンの多い白装束の美女詩人 Emily Dickinson[1830-1886]もいた) Amherst大学[Massachusetts州中西部]で教鞭を執っていた Robert Frost (1874-1963) の以下のような詩を読むと、もう北米の秋の匂いが満ち溢れて来ると思われます。
 
THE PASTURE
 
 I'm going out to clean the pasture spring;
 I'll only stop to rake the leaves away
 (And wait to watch the water clear, I may):
 I shan't be gone long. You come too.
 
 I'm going out to fetch the little calf
 That's standing by the mother. It's so young
 It totters when she licks it with her tongue.
 I shan't be gone long. You come too.
 
牧場
 
 わたしは牧場(まきば)の泉をきれいにしようと出かけるところ、
 ちょっと止まって木の葉を掻きのけるだけですよ
 (そして水の澄むまで待って見る、たぶん)、
 長くはかからない――あなたも来なさい。
 
 わたしは小さな仔牛(こうし)を連れてこようと出かけるところ、
 母牛のそばに立っているのを。まだ幼くて
 母牛が舌でぬぶるとよろよろするんですよ。
 長くはかからない――あなたも来なさい。
     (安藤一郎訳、『ディキンソン・フロスト・サンドバーグ詩集(世界詩人全集12)』[新潮社]、103頁)
 
エッ、この詩は初秋の詩?と訝しがる読者となっていれば、もうすでにフロストの詩的世界へ入っていると思われますが、そうです。これはあきらかに初春の詩であり(おそらく生まれたばかりであろう仔牛が母親に舌舐めづりされ、牧場の新鮮な泉に枯れ枝を掃きにいくというのも、冬が去っての雪解けの光景でしょう)、その情景も深まりゆく秋を思わせるものはありません。しかし、この詩が第一次世界大戦も始まった 1914年に英国で出版された詩集『ボストンの北』North of Boston を飾る冒頭の詩であって、一見しての何の変哲もない牧歌詩に見えるがゆえに、この裏に秘められた技巧(それはリフレインとなって繰り返される言葉 "I shan't be gone long. You come too."が例えば、古典的なテオクリトスやウェルギリウスといった牧歌的田園詩の修辞技法の一つ、一致文節法(ダイエレーシス)(diaeresis)に則っていること)を見逃し、実はこれがなんとも技巧的で都会的な修辞詩として戦争や国家闘争という現実を冷ややかに暗喩し、より明示的には「家庭」ないしは「共同体」を瞑想する「人生の秋」を歌う詩群への誘いとなっていることに気づかない読者は多いのです。
 「ニューヨーク知識人」の一人、Richard Poirierは Robert Frost: The Work of Knowing (Stanford Univ. Press, 1977)という本の中で以下のように説明しています。
 
ロバート・フロストの85歳の誕生日パーティ(1959年)は以来「文化的事件」として言われる類のものとなった。つまり、そのパーティはモダニズムに関係するある文学的反目に焦点に合わせ、今世紀[20世紀]の文学におけるフロストの業績を配置する困難さを示すものとなった。すなわち、その晩の主賓であったコロンビア大学のライオネル・トリリング教授はフロストを「恐ろしい詩人」と呼ぶことにしたのである。[中略]彼はフロストにある種の文学的な大胆さを認め・・・[それは]フロストが異議表明(dissent)という高貴で英雄的な血筋を繋ぐものであると主張することであった。その血筋とは、D・H・ロレンスによってアメリカ文学に特定されたもので[Studies in Classic American Literature (1923)を書いた英国文豪ロレンスはその前年から3年間 New Mexico州の牧場で細君 Friedaと共に暮らした] 、彼によって国別の違いはあっても、豊かに語られたものである。つまり、トリリングはフロストがアメリカの古典的伝統における急進派(radical)であると提案しているのであった。換言すれば、フロストは新たな[国家]意識が芽生えるよう、古くから譲り受けた旧大陸の意識を脱ぎ捨てようとしているのであった。そしてこの種の急進的企ては、トリリング教授が付言するには、「古い真実や信仰の是認や再確認によって行われるのでなく、生の恐ろしい現実を新たな方法で表現することによって行われる」のである。
 フロストの詩において、こういった現実の幾つかが顕在しているということは明らかであるが、彼がしばしば新たな方法においてそれらを提示したことが示されうるのである。が、私が思うに、それら全てを容認するとしても、フロストの作品によって与えられる結果としての体験が、どんなに一貫した重要な度合いにおいても、トリリングが見つけたと主張するところのロレンス的体験であるとは到底言えないということである。まったく逆なのである。つまり、フロストの才能は、非凡な独創性や性格と並んで、「古い真実や信仰」に挑戦するためにあるのでなく、むしろそれらを復元するためにあるだ。全体として、心的・性的エネルギーの詩的遂行に関わる、ほとんど危険なまでに強烈な関与は、フロストの場合、まさに我われと彼自身を「再確認」(reassurance)しようとする努力となっているのである。(3-5)
 
このように述べる批評家は特にフロストの「田舎風な」日常言語の詩が実は巧妙に意図された斬新な前衛性(急進性)を纏うものとなっているかを論ずるのです。話を「牧場」の詩に戻すと、「牧場」とは現実的な自然であると同時に、比喩的には、人間が自らを囲い込んだという意味での領分であり、家庭の延長としての共同体や国家という概念をも胚胎するものでありうるということを再確認することに繋がります。
 このことを敷衍するには話を大分先走りせねばならないので、もう少し、この詩人の詩を幾つか丁寧に読んでみましょう。
 
MOWING
 
There was never a sound beside the wood but one,
And that was my long schythe whispering to the ground.
What was it it whispered? I knew not well myself;
Perhaps it was something about the heat of the sun,
Something, perhaps, about the lack of sound
And that was why it whispered and did not speak.
It was no dream of the gift of idle hours,
Or easy gold at the hand of fay or elf:
Anything more than the truth would have seemed too weak
To the earnest love that laid the swale in rows,
Not without feeble-pointed spikes of flowers
(Pale orchises), and scared a bright green snake.
The fact is the sweetest dream that labor knows.
My long schythe whispered and left the hay to make.
(from A Boy's Will [1913]: Robert Frost: Poetry & Prose
[ed. by E. C. Lathem & L. Thompso, Henry Holt, 1972], p. 9)
 
草刈り
 
森のそばではただ一つの音しか聞こえなかった、
それは地面に囁くわたしの長い大鎌であった。
大鎌の囁くのは何だったろう?わたし自身もよくわからなかった。
たぶん、何か日光の暑さについてのことか、
何か、たぶん、音のないことについてか――
だからして大鎌は囁くばかりで話さなかったのだ。
それは怠惰な時間の恵みの夢でもなく、
または妖精の手でたやすく得られる夢でもなかった。
湿地の草を列にして倒していき、それには
なよなよした先の尖った花(淡(うす)いろの野生蘭)もまじり、
そしてきらきらした緑いろの蛇を脅(おびや)かす真剣な愛には
真実をこえたものは弱すぎるようにおもわれたであろう。
事実は労働の知るもっとも美しい夢である。
わたしの長い大鎌は囁いた、そしてあとにこれからつくる乾草(ほしぐさ)を残した。
       (安藤訳、同書 120-21頁)
 
いかがですか。何だ、別段「難解」でもなく、単に「草刈り」を歌っただけで、普通の田園詩じゃないか、と思う読者は多いと思われます。特に音読した際に明瞭となる、"sound," "schythe," "something," "whisper"といった繰り返される語のもつ "sibilant"(歯擦音)はその口語的リズムと相まって、大鎌が草を切る音を反響しています。でも、もっと注意深い読者ならば、その「囁き」といわれる大鎌の「音」が暗喩する「何か」の意味がこのような「音」と不可分であろうことを、つまり、単にこの詩は「草刈り」体験の詩ではなく、それが寓意するより象徴的意味(例えば、「事実は労働の知るもっとも美しい夢である。」といった文が語るような)の反響こそ大切だと直感するはずです。先程引用した批評家のポワリエはこの詩を解説する中で次のように敷衍しています。
 
  エマーソンやスティーヴンズ同様、フロストは作家の内で最も散文化や翻訳し難い作家である。一つの観念を別の観念で反駁するということが、彼から発せられると、議論というよりは、特定の観念に個人がしがみつくことの帰結についての警告となる。こういった帰結は、彼曰く、個人が音を立てる仕方において聞こえるのである。ウィリアム・ジェイムズが資本主義的エトスに容易に順応させたと誤って思われている用語を使えば、フロストはある観念や言葉の「現金価値」に関わっている。つまり、ある観念は真実や虚偽であるというのではなく、もしその観念をわたしが真実と仮定するならば、わたしにとってその観念は結局どういう帰結を引き起こすことになるか、が問題なのだ。・・・[この「草刈り」という詩において]われわれにとって最も重要な詩行は最終行でなく、警句のように残りの詩行から独立した最後から二番目の詩行となりがちである。この行は後になっても依然として何かを言おうとしている大鎌によって「囁かれた」ものではなく、またその「労働」は草を刈る行為でもない。というのも、最後になっても語り手は「あとにこれからつくる乾草(ほしぐさ)を残した」と言うからだ。つまり、この行は「国家的教訓のひとつ」(one of the proverbs of nations)であろうとしているのだ。エマーソンが、『自然』の「言語」の章において、教訓というものがいかに「たいてい自然の事実によって出来ているか」の例として引いているところの、「日が照っているうちに乾草をつくれ」(make hay while the sun shines)というものになっている。その結果、「労働の知る最も美しい夢」といわれている「事実」はほとんど疑いもなく詩そのものとなろう。この理由は詩の言葉が「詩的」ごまかしを働こうと躍起になっている場合は特にそうである。「夢」はあきらかに「たやすく得られる」ものでもない、というのも[この詩が目指している「夢」が]パルグレイブの『名詩文集』(Palgrave, Golden Treasury)からたやすく借用することで到達できるはずもなく、マーベルの「庭を背景にした草刈る人」(Andrew Marvell, "The Mower against Gardens")でさえ、「きらきらした緑いろの蛇を脅(おびや)かす」こともないからである。1916年に行われ、Edward Lathemの『ロバート・フロストとのインタヴュー』において再録されたインタヴューで詩人が言うには、「事実に対して諸君が行うことは何でも事実をごまかすことになり、諸君に対して事実が行うことは何でも、そう、まったく諸君の意に反したことでも、事実を詩に変貌させるのだ。」ここではフロストは、大鎌が何を言っているのか知らないと認めたり、その音を大きくしたがらないという冗談、常に「たぶん、何か・・・何かたぶん」という風に、その意味することを騒ぎ立てないという、大鎌の音についての半分おどけた問いかけが記すように、「事実」に対してはなにも「して」いないという考えと戯れている。「真剣な」という形容も詩や草刈りが何か厳かに受け取られるべきだというのではなく、「列にして倒していく」ような「愛」(詩人が好んで言うには、詩の行を「倒していく」ところの)は一つの証であり、続いて起こるべき何かの確認にすぎない。(Poirier, "Robert Frost," Voices and Visions, pp.114-19)
 
複雑に論じられた批評の英文を少しでも分かりやすく翻訳したつもりですが、あまり、鮮明にポワリエが言いたいことが伝わってこないかもしれませんね。要は、この詩の言語の積み重なりを解釈する行為が、「草刈り」といった肉体「労働」のもつ行為に似て、というか、この詩の意図することに、そのような肉体労働のもっているエネルギー投入に似た体験化の意味がある、ということだと思います。(さらには詩的言語を極めて実用[主義]的に考える意見も含まれていますが。)
 何か、おそらく平凡で日常的な労働の意味を考えさせるとあって、結構、哲学的な詩になっていることは感じられたかと思います。もう一つ短めの詩を読みましょう。
 
AFTER APPLE-PICKING
 
My long two-pointed ladder's sticking through a tree
Toward heaven still,
And there's a barrel that I didn't fill
Beside it, and there may be two or three
Apples I didn't pick upon some bough.
But I am done with apple-picking now.
Essence of winter sleeo is on the night,
The scent of apples: I am drowsing off.
I cannot rub the strangeness from my sight
I got from looking through a pane of glass
I skimmed this morning from the drinking trough
And held against the world of hoary grass.
It melted, and I let it fall and break.
And I was well
Upon my way to sleep before it fell,
And I could tell
What form my dreaming was about to take.
Magnified apples appear and disappear,
Stem end and blossom end,
And every fleck of russet showing clear.
My instep arch not only keeps the ache,
It keeps the pressure of a ladder-round.
I feel the ladder sway as the boughs bend.
And I keep hearing from the cellar bin
The rumbling sound
Of load on load of apples coming in.
For I have had too much
Of apple-picking: I am overtired
Of the great harvest I myself desired.
There were ten thousand thousand fruit to touch,
Cherish in hand, lift down, and not let fall.
For all
That struck the earth,
No matter if not bruised or spiked with stubble,
Went surely to the cider-apple heap
As of no worth.
One can see what will trouble
This sleep of mine, whatever sleep it is.
Where he not gone,
The woodchuck could say whether it's like his
Long sleep, as I describe its coming on,
Or just some human sleep.
(from North of Boston [1914]: Poetry & Prose 34-35)
 
林檎もぎのあと
 
わたしの長い二つの尖(さき)を持つ梯子(はしご)は木の中に立ったまま
なお天の方を指し、
そのわきにわたしが満たさなかった樽があり、
ある枝にはまだ二、三個の
もぎ残した林檎があるかもしれない。
だがもう林檎もぎの仕事は終わったのだ。
冬の眠りの要素が夜にただよう、
林檎の香(かお)り、わたしはまどろみかけている。
けさ、飲み水の槽(ふね)からすくい取り、
霜をおびた野の世界にかざした薄氷(うすらい)の
ガラスを通して見た新奇な眺め、
あれが眼の底にこびりついて離れない。
薄氷はとけ、わたしの手から落ちて砕けた。
だがそれが落ちるまえにもう
眠りに向かっていた。
その眠りがどういう形をとるか、
それもわたしにはわかっていたのだ。
巨大な林檎があらわれてはまた消える、
柄のところ、花のあと、
赤褐色の斑(まだら)が一つびとつはっきり見えて。
足うらにはまだ痛みが残っているし、
梯子の横木が圧(お)す力の感じも残っている。
枝々がたわむときの梯子の揺れも感じるのだ。
そして貯蔵箱からは
たえずごろごろと大きな響きを立てて
次々と荷車からあけられる林檎の音が聞こえてくる。
林檎もぎはあまりに
やりすぎたからだ、自分が望んだ
大きな収穫に疲れているのだ。
手に触れ、いつくしみ撫で、そっと取って、大事に落とさぬようにする
何千何万というおびただしい林檎、
地上を打ったものは
ことごとく
損(いた)みのないものも、切り株に刺さったものも、
まるでがらくたのように積まれた
林檎酒用の林檎の山にちゃんと加えられたのだから。
このわたしの眠りは、どのような眠りにしろ、
何にみだされるかいうまでもない。
もしヤマネズミがまだいたら、
あれが言ってくれるだろう、その眠りは
わたしがいま述べている彼のような長い眠りか、
それとも短い人間の眠りかを。
          (安藤訳、同書 147-49頁)
 
この詩はフロストの詞華集詩(anthology piece)の一つとして有名なものですが、林檎もぎの体験をうまく詩にした以上に、この詩人の特質をうまく表した作品と考えられます。つまり、林檎もぎという体験を余すところなくその悦びや大変さを記述する一方で、根本的に体験のみを歌った自然詩という範疇でなく、むしろ瞑想を語る幻想詩の範疇に入ることがわかるからです。なるほど、この詩が単に「林檎もぎ」だけの詩ではないということは冒頭の2行「わたしの長い二つの尖(さき)を持つ梯子(はしご)は木の中に立ったまま、なお天の方を指し、」というなかで「空」(sky)と言わずに、「天」(heaven)と表現されていることからも感じられますが、もちろん、7行目以下がもっぱらわたしがみた「冬の眠り」の夢の内容になっていることです。林檎もぎの疲れからか、林檎の芳醇な香りに誘われてか、早朝に体験した薄氷を通してみた世界がすぐさま自然と林檎もぎの夢に取って代わり、さらには周囲の自然界を象徴すべきヤマネズミの冬眠をも夢想するプロセスが語られます。ここで先程来、引用しているポワリエの批評をさらに引用します(ポワリエ先生には、かつてニュージャージー州立ラトガース大学大学院で師事したことがあり、私のフロスト観の大半は同氏の批評に負っているのでこの種のひいきをお許しください)。
 
「林檎もぎのあと」は夢幻体験の詩であり、冒頭から、唯一労働のみが自然界の基本的事実に到達できるということを提起しているのだ。自然界の基本的事実とは、この場合、一つの季節が移り変わる時にはいつでも生じる不安的なバランス感覚の発見や、身体の疲労、「落下」(fall)のありうべき結果としての傷や腐敗等である。「事実」や物質への到達が労働を通じて行われるとき、詩人でもありうる労働者は、しっかりとして揺るぎないものが集団的「夢」の一部を構成し、神話の性質を帯びることにおぼろげながらも気づくはずだ。・・・労働の貫通力は「林檎もぎ」や林檎もぎについて書いたり読んだりすることにおいて証明されうるが、こういった活動のどれもがわれわれに対し、林檎やそれに付随すること全てが精神の象徴となっているかを示すのである。この詩における軽やかな声や言葉の動きがより深い意味と齟齬を来していると感じる読者がいるとすれば、そのような読者はフロストがエマーソンやソーロウに倣って、そのような意味の可能性がただそこで遭遇されるべきだと認識していることに共感しない者であるにすぎない。林檎もぎをする者が冒頭で「わたしの長い二つの尖(さき)を持つ梯子(はしご)は木の中に立ったまま」と思い起こす時、彼は何ら自意識に付きまとわれることなく、「自然の事実」によって神話的な象徴的な意味内容に関わっているが、このことは、梯子がすぐさま「なお天の方を指し」とあるさらなる「事実」によって、そうなっているのと同じ理由による。「天」とは梯子を登る誰もに待ち受ける目的地ではなく、目的意識自体の一部となっている。(Robert Frost, pp. 293-94)
 
どうですか。このような批評によって詩の解釈が助けられたと感じるか、阻まれたと感じるかは皆さん次第ですが、いずれにせよ、少なくとも詩がこのように読者を「林檎もぎあと」の哲学的瞑想へと誘うことが魅力の一部を構成していると言えると思います。
 
ここで詩人の経歴を概観したく思います。以下の引用はディキンソン、フロスト、サンドバーグという、いわゆるアメリカの地方色を前面に出した詩人として一括りにした訳詩集における訳者安藤一郎氏による解説です(フロストという詩人についての評価は、いまだにニューイングランド文学の一部という見方が有力なために、あまり彼を斬新なモダニスト詩人であると認める人は少ないと思われますが、なるほど経歴的には十分その土地に根ざした詩人であることが分かります[が、私自身はその詩的内容も地方色の文学であるという評価には、すでにポワリエ教授の見解を論じてきたように、賛同しません])。この解説文ではまず、彼がアメリカで唯一存命中に多くの栄誉を受け、いわば「桂冠詩人」とも呼ぶべき国民詩人であったことが述べられ、その絶大な人気の理由が、彼がニューイングランド由来の個人主義の伝統からか一種の離群性からか、「近代文明に取り残された山間に住み、そこから次第に都会や文明を批判的に見るようになったのだが、そういう生き方は、おそらくアメリカ人にとって郷愁的なあこがれなのではあるまいか」と説明されています。
 
ロバート・フロストは、一八七四年にカリフォルニア州サンフランシスコで生まれた。父ウィリアム・ブレスコット・フロストはスコットランド系で、母もまたスコットランドから出てきた婦人だった。ウィリアムは反逆児的な風変わりな人物で、故郷のニューイングランドを棄てて西部に行き、サンフランシスコで新聞の仕事をする一方、政治運動にも首を突っ込んでいた。無謀で酒乱の性があったが、ロバートが十一歳のとき死んだので、妹と共に母に伴われて、ニューイングランドに戻り、マサチューセッツ州のロレンスという、ボストンの北メリマック河畔にある町の、祖父の許に身を寄せた。また彼はハイスクールを卒える頃すでに、将来詩人になろうという志を抱いていたけれども、紡績工場を経営していた祖父はそれを喜ばなかった。ダートマス・カレッジに入ってみたが、自分の気質に合わず、結婚してからハーヴァードに学んでも、アカデミックな課程は窮屈で二年ばかりでやめてしまった。ただギリシア、ラテンの古典にだけ興味があり、テオクリトス、ウェルギリウス、ホラティウス、カトゥルス等に心を強く惹かれたのだった。これは後年の彼に、大きな影響を与えることになるのである。
 どういう職業についても長く続かないので、二十六歳のとき、祖父がニューハンプシャー州デリーの近くに農場を買ってくれて、そこで鶏を飼養したりして農業を営んでみたが、それも数年後には全く失敗ということになった。一九一二年三十八歳のときに、農場を売り、小学教師をした貯めた金を加えて、一家はイギリスへ渡ったのである。フロストは、妻のエリナーが「イギリスへ行って、藁屋根の下で住みましょうよ」と言ったからだと、ユーモアを交えて語ったというが、動機は単にそんなことではあるまい。それまで彼が発表した詩は数篇にすぎず、『インディペンデント』『ニューイングランド・マガジン』『ユース・コンパニヨン』の三誌に出たくらいで、しかもまだアメリカ詩壇に注目されるには至っていなかった。[中略]一九一五年の夏近くまでのイギリス滞在は、本国では無名であった彼に、「奇跡」をもたらしたのである。グロスターシャーのディモックに住んでいるあいだに、イギリスのいわゆる「ジョージ朝詩人」のグループと知り合って、彼らの友情と鼓舞から、一九一三年に『少年のこころ』をまとめるとロンドンのデイヴィッド・ナットから出版した。これは意外にも好評で、翌年矢継ぎ早に第二詩集『ボストンの北』を同社から刊行したのである。そして四年間の不在を経てアメリカに帰ったとき、ロバート・フロストは四十歳をこえてようやく詩人としての地歩を得たのであった。
 ニューイングランドの牧神の笛は、イギリスから響いてアメリカに耳を傾けさせたというわけである。[中略:ジョージ朝詩人の説明やそれらとのアメリカ的差異の説明あり]ボストン以南は、ワシントンまで大きな都市が連続して、現在「メガロポリス」(巨大都市地域)を形成しつつあり、都市文化がもっとも発達しているのに反して、アメリカ史に由緒深いニューイングランドの大部分は、自然の姿を留め、野趣に富む森林、谿谷、海岸が見られる。村落には、依然としてコロニアル・スタイルの十八世紀からの家屋さえ残っている。
 フロストは、そういうニューイングランドの自然を愛し、農場を持っていた経験から、この地方の住民をよく知り、また動植物の生態に通暁していた。彼の観察は極めて細密である。彼の詩には種々の野草が出てくるし、小鳥に関するものも少なくない。
 そういう意味では、フロストが自然詩人と呼ばれるのは当然である。しかし、アメリカの自然文学は、ソローなどでもわかるように、ヨーロッパの通念にあるごとき神話化とは全く無関係である。また、たぶんワーズワースから学ぶところも多かったであろうが、自然と人間の調和という理想主義もない。シェリーやキーツは自分にとって華麗すぎるようにおもわれた、と彼自身言ったことがあるそうだが、たしかに、ロマンティックな甘美さからは非常に遠い詩人である。
 『少年のこころ』は、「自然の詩」であり、次の『ボストンの北』になると、「人間の詩」であると見ることが出来る。元来、フロストは自然礼賛に我を忘れるという陶酔に陥らない。彼の興味は、いつも自然と人間の対立に向けられるので、自然は必ず人間のいる場面として捉えられる。つまり、人間の本質的な生き方につながるものとして、自然が存在するのである。「牧場」「草刈り」「花のひとむれ」「樺の樹々」「雪の夕べに森のそばに立つ」など、単なる自然詩と見ないで、そこに人間の「ライフ」ということを重ねて考えてみるべき詩である。
 『ボストンの北』に収められた十六篇のうち、十二篇はニューイングランドに住む奇妙な人物を主題にした長詩で、「子供の墓」もその一つだが、その他に「作男の死」とか「召使の召使」とか、ドラマに近い構成を持っている。第三詩集『山の合間』にも、「雪」というサスペンスに満ちた秀作があって、これらはダイアローグを交えた、練達の無韻詩(ブランク・ヴァース)で書かれている。
 ダイアローグといえば、フロストはニューイングランド人の長くのばす話し方、あるいは言回しを、詩の中に生かしている。こういう口語体を用いたところに、彼の詩の魅力があるのだろう。しかし、詩の形式では、彼は厳しく伝統を守りつづけた。十八世紀のイギリスでポウプが大いに用いた、二行ずつ脚韻する英雄対句(ヒロイック・カプリット)、またソネットが好きだし、バラッド形式もよく使う。彼は定型論者で、その点カール・サンドバーグとは対蹠(たいせき)的である。かつて二人の間で、定型と自由律(フリー・ヴァース)に関する応酬が行われたことがあったが、両者はどこまで行っても会わない平行線なのである。
 第五詩集『西へ流れる小川』に同じ題名の長い詩があって、万物流転(るてん)の思想をみとめるけれども、しかもなお人間は意志をもって何かで大きな推移に逆らうこともできる、というヤンキー気質を示している。このあたりから彼の詩にあらわれる自然のイメージは、自然そのものではなくて、自分の思想を語る暗喩もしくは寓意に近くなるのである。
 第六詩集『遙かな山並』から次の『証しの樹』になると、フロストの形而上的傾向が非常に顕著に出てきて、独自の思想を展開させるのである。彼は初め東部に大きな影響を与えたエマソンの超絶主義を否定する、もっと現実的な態度を取ったのだが、中期から次第に宇宙観のようなものを表しはじめた。しかし、根本的には懐疑主義者で、しばしば矛盾撞着するが、彼はそういう矛盾撞着を好んでいるようにもみえる。
 フロストは、ニューハンプシャー州のフランコニアとかヴァーモント州のリプトンなどに住んで、素撲な隠棲を愛する一方、アマースト、ミシガン、ハーヴァード、ダートマス等の大学で教壇に立った。また諸所で講演と自作詩朗読を行った。彼の講演は、機知とユーモアに富んでいて聴衆を魅了したという。後期のフロストは、風刺と皮肉を大いに発揮して、第八詩集『スティープルの藪』には時評的なものさえ見出される。彼の好んだラテン詩人のある者が宮廷から退いて田園にひそみながら、当時の社会や政治を批判的に眺めていたのと似ている姿勢が、フロストにもあると言ってさしつかえないだろう。[中略:晩年の詩劇『道理の仮面劇』『慈悲の仮面劇』についての解説あり]
 一九六一年一月二十日のケネディー大統領の就任式で、『証しの樹』の中の「まるごとの贈り物」を朗読したが、この詩にもアメリカ合衆国の成立が歴史的に述べられている。
 晩年のフロストは、サンドバーグと同じように、知名の士になりすぎたようである。生涯の残りを国家のためにささげるつもりだったのかもしれないが、ケネディー大統領をあたかも息子(むすこ)か孫のように愛する一方、イスラエルを訪問したり、ソ連へ親善使節として赴いてフルシチョフ首相と会談したりした。何しろ八十八歳の高齢であったから、そういう旅行が彼の老体にこたえたのであろう、一九六三年の一月二十九日に、ボストンの病院で詩人としての長い一生を閉じた。
 八十五回目の誕生日を記念するために編まれた最後の詩集『開拓地にて』が三月に刊行されて、忽ち五万部を売り切ったという。しかし、この詩集はそれほど優れたものではない。巻中の一詩「開拓地の丸太小屋」に、次のような詩句が見出される――
 
  もし彼らが自分たちはだれかということを
知る日が来たならば、どこに自分たちがいるかをもっとよく知るだろう。
だが自分たちはだれかということは重大でなかなか信じられない――
彼らにとっても、また傍観する世界にとっても。
 
 フロストは、ここで開拓時代の戸惑いしている若いアメリカ(彼ら)を、まだ頭に浮かべていたのであろう。今日のアメリカは依然として戸惑い状態にある、と彼は考えていたのかもしれない。(『ディキンソン・フロスト・サンドバーグ詩集』、289-96頁)
 
以上、結構長々と引用しましたが、特に最後でフロストの政治姿勢が民主党のケネディ大統領の政策に一致し、国際外交活動の一部に加担した旨が書いてありますが、こういった経歴も詩人のそれまでの隠遁的な牧歌詩人という仮面が実は高度に政治的な都市文化に結構、深く根ざしたものであるか(つまり、近代文明に対する反逆という姿勢)を語っているように私には思われます。この意味では、19世紀のロマン派詩人が産業革命に対し、あからさまではないにせよ、批判するなかで、結局は「隠遁」や「逃避」という形の自然回帰を主張したことの現代的意味を考えさせるものです。例えば、ワーズワース(William Wordsworth, 1770-1850)の『序曲』The Prelude 第五巻(Book V)という長篇詩には以下のような部分があります。
 
There was a Boy, ye knew him well, ye Cliffs
And Islands of Winander! many a time,
At evening, when the stars had just begun
To move along the edges of the hills,
Rising or setting, would he stand alone,
Beneath the trees, or by the glimmering lake;
And there, with fingers interwoven, both hands
Pressed closely palm to palm and to his mouth
Uplifted, he, as through an instrument,
Blew mimic hootings to the silent owls
That they might answer him. And they would shout
Across the watery vale, and shout again
Responsive to his call, with quivering peals,
And long halloos, and screams, and echoes loud
Redoubled and redoubled; concourse wild
Of mirth and jocund din! And, when it chanced
That pauses of deep silence mocked his skill,
Then, sometimes, in that silence, while he hung
Listening, a gentle shock of mild surprise
Has carried far into his heart the voice
Of mountain torrents; or the visible scene
Would enter unawares into his mind
With all its solemn imagery, its rocks
Its woods, and that uncertain heaven, received
Into the bosom of the steady lake.
 
This Boy was taken from his Mates and died
In childhood, ere he was ten years old.
Fair are the woods, and beautious is the spot,
The Vale where he was born: the Church-yard hangs
Upon a slope above the Village School,
And there, along the bank, when I have passed
At evening, I believe, that oftentimes
A full half-hour together I have stood
Mute-looking at the grave in which he lies.
(V, 389-422[1805-6年版])
 
[散文訳]ウィナンダーの島々とその断崖よ、だいぶ前ではあるが、宵時に星が丘の稜線に沿って輝き出たり、沈もうとするとき、木々の下とか輝く湖畔で、諸君もよく知る一人の少年がぽつねんと立っていたのを覚えていよう。彼はそこで両掌をしっかりと合わせ、絡めつつ、口の近くに持っていき、フクロウが自分に応えるようにと、楽器のようにホウホウと真似て吹くのだった。するとフクロウたちは湖の谷間を越えて彼の呼び声に応じて何度も鳴き始めるのだった。その鳴き声は何とも陽気で騒がしい集いとなっていた。それから、彼の技術を嘲るような長い沈黙の中、時々、彼が耳を澄ましていると、山の息吹が穏やかな驚きの衝撃となって心に拡がるのだ。つまり、岩々や木々やおぼろげな天空が、静かな湖面に身を映す様が自然と拡がるのであった。この少年は実は、友達から引き離され、10歳にならぬうちに死んでしまった。彼が生まれたその地の谷間や森はなんとも美しい。村の学校のうえの坂道を登りつめると教会墓地があるが、私はかつてその急斜面に沿って歩き、しばし丸半時間ほど、立ち止まって彼が横たわる墓を眺めたことがある。
 
以上の詩とフロストの「出来るだけ」"The Most of It"(原題:"Making the Most of It" 「出来るだけ利用する」『証しの樹』 A Witness Tree [1942]収録)を較べてください。いかにフロストがワーズワースの詩を「出来るだけ利用」しているのかが分かります。
 
He thought he kept the universe alone;
For all the voice in answer he could wake
Was but the mocking echo of his own
From some tree-hidden cliff across the lake.
Some morning from the boulder-broken beach
He would cry out on life, that what it wants
Is not its own love back incopy speech,
But counter-love, original response.
And nothing ever came of what he cried
Unless it was the embodiment that crashed
In the cliff's talus on the other side,
And then in the far-distant water splashed,
But after a time allowed for it to swim,
Instead of proving human when it neared
And someone else additional to him,
As a great buck it powerfully appeared,
Pushing the crumpled water up ahead,
And landed pouring like a waterfall,
And stumbled through the rocks with horny tread,
And forced the underbrush――and that was all.
(Poetry & Prose 138)
 
彼は自分が宇宙を独り占めしていると思った。
というのも、自分が起こすことの出来た応答の声すべてが
湖水をわたる木々に隠れた谷間から起こった
自分自身を嘲るような木霊にすぎなかったからだ。
ある朝、ゴロ岩の砕けた浜辺から必死で叫んだのだった、
つまり、自分の叫び声が求めたのは、
真似声で返される自身への愛ではなくて、
対抗する愛、独自な反応であったのだ。
そして自分の叫び声からやってきたものは何一つなかったが、
ある具体的形をとったものが
反対側の崖の斜面で砕け散り、
はるか遠くの湖水の中にまで跳ね、
しばらくした後、泳いできて、それは
近づくと人間の形をする代わりに、また
自分についてきた他の誰かでもなく、
一匹の牡鹿としてそれは現れたのだった、
前方に湖水を逆巻きながら押し上げ、
滝のように上陸したかとおもうと、
角張った足跡をつけ、岩のあいだを転がるように行き、
下生えの灌木を踏みつけた。それですべてだった。
 
なるほど、後者の詩の「彼」は前者の詩の「少年」よろしく、湖水を望む谷間に木霊を響かせ、まわりの自然がそれを反響する様を楽しんでいるかのようです。でもそういったワーズワースの詩における出発点から、フロストの詩は大きく逸脱します。ワーズワースの詩で彼の心に入ってくるのが、山の息吹や湖面に映る岩や木々の姿("a gentle shock of mild surprise / Has carried far into his heart the voice / Of mountain torrents; or the visible scene / Would enter unawares into his mind / With all its solemn imagery, its rocks / Its woods, and that uncertain heaven, received / Into the bosom of the steady lake.")である一方、フロストの詩においては「ある具体的形をとったもの」としての「牡鹿」であるのです。また、ワーズワースは少年の木霊するフクロウの真似声に対して込めた意味に関しては沈黙している一方で、フロストは彼の必死の「叫び声が求めたのは、真似声で返される自身への愛ではなくて、対抗する愛、独自な反応であったのだ」と述べています。
 この詩の意味をさらに深めるためには、同じ詩集において続いて並んでいる他の二篇の詩と合わせて読むとよいとポワリエ教授は論じています(Poirier, Robert Frost 159-72)。そうすることでフロスト的世界が究極的にどういった神話を提供するものか、特に、彼がいかに19世紀ロマン派詩人の伝統において作詩しながらも極めて現代的なアイロニーを生み出す詩を書いたかを見ることができるからです。
 
NEVER AGAIN WOULD BIRDS' SONG BE THE SAME
 
He would declare and could himself believe
That the birds there in all the garden round
From having heard the daylong voice of Eve
Had added to their own an oversound,
Her tone of meaning but without the words.
Admittedly an eloquence so soft
Could only have had an influence on birds
When call or laughter carried it aloft.
Be that as may be, she was in their song.
Moreover her voice upon their voices crossed
Had now persisted in the woods so long
That probably it never would be lost.
Never again would bird's song be the same.
And to do that to birds was why she came.
(The Poetry of Robert Frost: The Collected Poems, Complete and Unabridged, ed. by E. D. Lathem [Holt, 1969], p. 338-39)
 
決して二度と小鳥たちの歌は同じものになろうとはしなかった
 
彼は声を大にして言い、自身をそう納得させることが出来た、
まわりの庭すべてにいた小鳥たちが
終日続いたイヴの声を聞いたことから、
自分たちの鳴き声にある上音を付け加えてしまうことを。
呼び声か笑い声となって高く運ばれると
文句なしに、かくも柔らかい闊達さのみが
小鳥たちに影響を与えることができたのだ。
それが何であれ、彼女は小鳥たちの歌声のなかにあった。
さらには小鳥たちの歌声と交差した彼女の声は
森の中で今ではかくも長く続いたので
おそらく決してなくなることはないだろう。
決して二度と小鳥たちの歌は同じものになろうとはしなかった。
そして小鳥たちにそのことをするために彼女はやってきたのだった。
 
THE SUBVERTED FLOWER
 
She drew back; he was calm:
"It is this that had the power."
And he lashed his open palm
With the tender-headed flower.
He smiled for her to smile,
Bur she was either blind
Or willfully unkind.
He eyed her for a while
For a woman and a puzzle.
He flicked and flung the flower,
And another sort of smile
Caught up like fingertips
The corners of his lips
And cracked his ragged muzzle.
She was standing to the waist
In goldenrod and brake,
Her shining hair displaced.
He stretched her either arm
As if she made it ache
To clasp hernot to harm;
As if he could not spare
To touch her neck and hair.
"If this has come to us
And not to me alone――"
So she thought she heard him say;
Though with every word he spoke
His lips were sucked and blown
And the effort made him choke
Like a tiger at a bone.
She had to lean away.
She dared not stir a foot,
Lest movement should provoke
The demon of pursuit
That slumbers in a brute.
It was then her mother's call
From inside the garden wall
Made her steal a look of fear
To see if he could hear
And would pounce to end it all
Before her mother came.
She looked and saw the shame:
A hand hung like a paw,
An arm worked like a saw
As if to be persuasive,
An ingratiating laugh
That cut the snout in half,
An eye become evasive.
A girl could only see
That a flower had marred a man,
But what she could not see
Was that the flower might be
Other than base and fetid:
That the flower had done but part,
And what the flower began
Her own too meager heart
Had terribly completed.
She looked and saw the worst.
And the dog or what it was,
Obeying bestial laws,
A coward save at night,
Turned from the place and ran.
She heard him stumble first
And use his hands in flight.
She heard him bark outright.
And oh, for one so young
The bitter words she spit
Like some tenacious bit
That will not leave the tongue.
She plucked her lips for it,
And still the horror clung.
Her mother wiped the foam
From her chin, picked up her comb,
And drew her backward home.
(The Poetry of Robert Frost 339-41)
 
堕落させられた花
 
彼女は後ずさりした、彼は落ち着いて
「力のあるのはこれなんだよ」と言った。
そして彼は柔らかい花の先で
自分のひろげた掌を強く打った。
彼は彼女が微笑むようにと微笑んだ。
が、彼女はそれが見えなかったか、
意図的にか、冷たくあしらった。
彼はしばらくのあいだ彼女のなかに
一人の女と当惑の表情を探しもとめた。
彼は花を引き抜き、振り回す、
すると別なたぐいの微笑みが、
彼の唇の根本を指先でするように押し広げ、
尖った鼻先のあいだに入ってきた。
キリンソウやワラビのなかで
彼女が中腰になると、
輝く髪がひろがる。
彼は彼女が怪我しないように
彼女の両腕を押しひろげた、
あたかも彼女が自身のからだを
抱きたくてしかたがなかったように、
あたかも彼が彼女の首や髪に触れることを
したくてたまらなかったように。
「もしこれがぼくだけでなく、
ぼくたち二人に力を与えることなれば
と彼が言ったように彼女は思った。
でも彼はあらゆる言葉で語ろうとしたが、
彼の唇は吸われ、吸い尽くされ、
そんな努力も
骨につかえた虎のように彼をむせさせた。
彼女は上体を反らさねばならなかった。
脚を動かすことは敢えてしなかった、
というのも動きが
野獣のなかに眠っている
追い求める魔性を起こさないように。
そのときだった、彼女の母親の声が
庭の壁の内側からして、
彼女は怖れの表情を隠した、
彼がその声を聞いて
母親がやってくるまえに
急いでことを終えてしまうか見極めるために。
彼女は彼に恥ずかしさを見た。
手は動物の足のようにぶら下がり、
腕がのごぎりのように動き、
あたかも説得するかのようだ、
ご機嫌取りの笑いが
二人の鼻をまっぷたつに引き裂き、
伏し目がちにさせた。
少女は花が男を堕落させた
とわかったわけだが、
彼女にわからなかったのは、
花が下品で悪臭を放つようなものではないことだ。
つまり、花は一つの役割を演じたにすぎず、
花がなにを始めたにせよ、
彼女自身のあまりにやせたこころは
すでにひどくことをなし終わっていたということだ。
彼女は最悪のことを見た。
そしてそれがけだものの法則に従う
イヌやなんであれ、
夜以外は臆病者になった彼が
その場から走り去っていったのだ。
彼女は彼がまずは、けつまづき、
続いて四つん這いで逃げる様を耳にした。
彼女は彼が無遠慮に吠えるのをきいた。
おやまあ、うら若い者にとっては
彼女が吐いた苦々しい言葉は
しつこいくつわのように
舌を去ろうとしないのだった。
彼女はそのことで唇をかきむしったが、
その恐怖は離れなかった。
彼女の母親は彼女のあごから
あわ汗を拭き取り、彼女の櫛を拾い上げ、
彼女を家のなかに連れていった。
 
最初の「出来るだけ」における少年に取って代わって、一対の男女関係をベースとした関係が二つの詩では語られています。すなわち、「決して二度と小鳥たちの歌は同じものになろうとはしなかった」においてイヴと象徴的に言われる女性の存在、とくに彼女の声は「彼」にとって小鳥の囀りでさえ変化させるものとなるわけですし、「堕落させられた花」においてはよりあからさまな男女の性愛行為が描写されています。でもポワリエ教授が着目させるのは、これらの詩群に一貫したテーマとして現れる人間と自然とのある関係です。つまり、「出来るだけ」では人間が堕落以前(大人になる以前の少年時代)に結んでいた自然との関係(少年が自然に対し、必死に「対抗する愛、独自な反応」を叫び求めるという一方的な関係)であり、「決して二度と小鳥たちの歌は同じものになろうとはしなかった」においては、楽園状態にいるアダムとイヴの関係がすでに小鳥という自然界との関係に変化を及ぼしている様です。そして「堕落した花」ではイヴである「彼女」は最初から「彼」を巧みに誘惑し、堕落させる(自分と性的関係をもたせる)わけですが、その際に使われた「花」(自然)はもうすでに背景的存在でしかありません。このようにおおざっぱな寓意的解釈ができるわけは、実は細部の意味がそういった大きな象徴的意味の拡大を許しているからですが(例えば、最後の詩の細部はその題名を含め、実に多様な解釈を許すので以上のような寓意的意味が出てくる必然性はありません)、ロマン派の詩の伝統を受け継いだ詩がこのように平易な日常語で語られることはむしろ斬新な現代性があると考えられます。ポワリエ教授も「もっとも単純で最良の意味において、自らを抱擁する大きさのために、また『生』が自身を悦ばせ、魅惑させることが許されるよう人間がうまく配慮するために、詩は刺激的なのだ」"In the best and simplest sense the poem is exciting for the largeness of its embrace, and because the man is beautifully anxious that 'life' be allowed to exalt and enrapture itself." (166)と述べ、次のように敷衍しています:
 
So that even without knowing classical literary analogues in echo literature, and all that is implied there in about man and his relation to the universe, any reader feels the presence and pressure here of a greate human tradition and a great human predicament. In the expansive gestures of inclusiveness made at the outset, in the efforts to bring a universe into the focus of the self and its immediate environments, the poem ["The Most of It"] is about the attempt "make" a home by demanding a "return," a coming back of sound enriched and transformed by its movements out into the universe. If the man or "life" asks too much, then the response which they do get by the end of the poem is at least to that degree more powerfully informative about the nature of things than if they had asked for too little. If the aspiration is always to bring "home" what would otherwise be unseen, an element left to chaos, then at least the effort should show not only what can but also what cannot be given house room. . . . (166-67)
 
Nothing in Frost [than in the poem "Never Again Would Birds' Song Be the Same"] more beautifully exemplifies the degree to which "tone of meaning" or sounds of voice create resemblances between birds and Eve, between our first parents and us, between the unfallen and the fallen world. On such resemblances as these Frost would have us imagine a habitable world and a human history. This is a poem which establishes differentiations only that it may then blur them. The delicate hint of a possible but very light sarcasm in the first line blends into but is not wholly dissipated by a concessive "admittedly" in the sixth line. This is one man allowing for another's pride of love but unable to resist the suggestion that perhaps his friend is a bit overindulgent. And the other concessive phrasings, "Be that as may be" and "Moreover," are equally delicate in their effectiveness. For one thing, they tend to take the sting out of the possibly ironic statement that the eloquence of Eve "could only have had an influence on birds"; for another, they lighten the force of "persisted"; and they allow for an almost unnoticeable transition by which the reader is moved from the "garden round" of the second line to "the woods" in line 11.
The tone of the poem is of a speaker who is now here with us and of our time and destiny, while it is at the same time full of a nice camaraderie with our first parents. It is loving and responsible all at once, accepting the parentage of Adam and Eve and the ncessary consequences of the Fall, along with the acknowledgement of the possibly good fortunes that also attended it. Eve did comefrom Adam and with Adamin order that the song of birds should, by being changed, mean more than it otherwise would have. The force of the word "aloft" is ever so discreetly crucial here. Her eloquence had power not indiscriminately but only when it was carried to a "loftiness" that belongs to great love and great poetry, neither of which need be separated from the delights of "call or laughter." The "voice upon their voices crossed" became part of Emerson's fossil poetry, awaiting discovery by future readers, and lovers. The ability to hear the "daylong" voice of Eve in bird song teaches us that our own voices, like the voice in this poem, still carry something of our first parents and their difficult history. Mythological identification in this poem consists of voices finding a way to acknowledge and also to transcend historical differences and historical catastrophes. . . . (170-71)
 
"Never Again Would Birds' Song Be the Same" is quite properly located between two poems in which human sound fails in an attempted transaction with nature. It is as if the young man and the woman of "The Subverted Flower," the last of the three poems, were in a post-lapsarian world where flowers and sex have the power to transform them into beasts, while the man alone in "The Most of It" is in the world without an Eve of any kind, and where the only form of animal life which can be heard, seen, or imagined in response to a cry of loneliness is so alien as to be called "it." In both poems the world is devoid of love, and consequently, as Frost would have it, of the power to realize a human extension, "someone else additional to him," a metaphor, like Adam and Eve, that would augment the human animal and allow it to make a human "home." These three great poems are profoundly about finding a "home" in the largest senseby propagating the self through love, through the metaphorical discovery of self in another. . . . (171-72)
 
           
 
 最後にみなさんの研究観賞用として、フロストの劇詩(晩年の詩劇ではありません)を引用します。自宅での埋葬という、それこそ、野沢尚脚本のドラマでも観ているような夫婦間の微妙な心理サスペンスが展開していますが、これはいかにフロストがエリオットやパウンドよりもずっと現代的な感性を持ち合わせていたかを証明するものとなるでしょう。
 
HOME BERIAL
 
He saw her from the bottom of the stairs
Before she saw him. She was starting down,
Looking back over her shoulder at some fear.
She took a doubtful step and then undid it
To raise herself and look again. He spoke
Advancing toward her: "What is it you see
From up there always?for I want to know."
She turned and sank upon her skirts at that,
And her face changed from terrified to dull.
He said to gain time: "What is it you see?"
Mounting until she cowered under him.
"I will find out nowyou must tell me, dear."
She, in her place, refused him any help,
With the least stiffening of her neck and silence.
She let him look, sure that he wouldn't see,
Blind creature; and awhile he didn't see.
But at last he murmured, "Oh," and again, "Oh."
 
"What is itwhat?" she said.
"Just that I see."
"You don't," she challenged. "Tell me what it is."
 
"The wonder is I didn't see at once.
I never noticed it from here before.
I must be wonted to itthat's the reason.
The little graveyard where my people are!
So small the window frames the whole of it.
Not so much larger than a bedroom, is it?
There are three stones of slate and one of marble,
Broad-shouldered little slabs there in the sunlight
On the sidehill. We haven't to mind those.
But I understand: it is not the stones,
But the child's mound――"
 
"Don't, don't, don't, don't," she cried.
 
She withdrew, shrinking from beneath his arm
That rested on the banister, and slid downstairs;
And turned on him with such a daunting look,
He said twice over before he knew himself:
"Can't a man speak of his own child he's lost?"
 
"Not you!Oh, where's my hat? Oh, I don't need it!
I must get out of here. I must get air.
I don't know rightly whether any man can."
 
"Amy! Don't go to someone else this time.
Listen to me. I won't come down the stairs."
He sat and fixed his chin between his fists.
"There's something I should like to ask you, dear."
 
"You don't know how to ask it."
 
"Help me, then."
Her fingers moved the latch for all reply.
 
"My words are nearly always an offense.
I don't know how to speak of anything
So as to please you. I can't say I see how.
A man must partly give up being a man
With womenfolk. We could have some arrangement
By which I'd bind myself to keep hands off
Anything special you're a-mind to name.
Though I don't like such things 'twixt those that love.
Two that don't love can't live together without them.
But two that do can't live together with them."
She moved the latch a little. "Don'tdon't go.
Don't carry it to someone else this time.
Tell me about it if it's something human.
Let me into your grief. I'm not so much
Unlike other folks as your standing there
Apart would make me out. Give me my chance.
I do think, though, you overdo it a little.
What was it brought you up to think it the thing
To take your mother-loss of a first child
So inconsolablyin the face of love.
You'd think his memory might be satisfied――"
 
"There you go sneering now!"
 
"I'm not, I'm not!
You make me angry. I'll come down to you.
God, what a woman! And it's come to this,
A man can't speak of his own child that's dead."
 
"You can't because you don't know how to speak.
If you had any feelings, you that dug
With your own handhow could you?his little grave;
I saw you from that very window there,
Making the gravel leap and leap in air,
Leap up, like that, like that, and land so lightly
And roll back down the mound beside the hole.
I thought, Who is that man? I don't know you.
And I crept down the stairs and up the stairs
To look again, and still your spade kept lifting.
Then you came in. I heard your rumbling voice
Out in the kitchen, and I don't know why,
But I went near to see with my own eyes.
You could sit there with the stains on your shoes
Of the fresh earth from your own baby's grave
And talk about your everyday concerns.
You had stood the spade up against the wall
Outside there in the entry, for I saw it."
 
"I shall laugh the worst laugh I ever laughed.
I'm cursed. God, if I don't believe I'm cursed."
 
"I can repeat the very words you were saying:
'Three foggy mornings and one rainy day
Will rot the best birch fence a man can build.'
Think of it, talk like that at such a time!
What had how long it takes a birch to rot
To do with what was in the darkened parlor?
You couldn't care! The nearest friends can go
With anyone to death, comes so far short
They might as well not try to go at all.
No, from the time when one is sick to death,
One is alone, and he dies more alone.
Friends make pretence of following to the grave,
But before one is in it, their minds are turned
And making the best of their way back to life
And living people, and things they understand.
But the world's evil. I won't have grief so
If I can change it. Oh, I won't, I won't!"
 
"There, you have said it all and you feel better.
You won't go now. You're crying. Close the door.
The heart's gone out of it: why keep it up?
Amy! There's someone coming down the road!"
 
"Youoh, you think the talk is all. I must go
Somewhere out of this house. How can I make you――"
 
"Ifyoudo!" She was opening the door wider.
"Where do you mean to go? First tell me that.
I'll follow and bring you back by force. I will!"
(The Poetry of Robert Frost 51-55)
 
子供の墓
 
男は彼女のほうを見るまえに、階段の下から
彼女を見ていた。女は走りおりてきた、
何か恐ろしいものを肩ごしにふり返りながら。
ためらうように一歩出て、それから戻って
からだを伸ばし、もう一度見た。
彼は彼女に近づいて言った、「何が見えるんだい、
いつもそこから眺めるじゃないか―おれは知りたいんだ
彼女はそれを聞くとふり返って、スカートを垂らしてしゃがんだ、
その顔は恐怖の表情から無感覚に変わった。
男はわざとゆっくり間(ま)をおいて、「何が見えるんだ」と言い、
そのあいだに階段を上がってきて、縮みうずくまる女のそばに来た。
「今日はそれを知りたいんだ―おれに聞かせてくれ」
彼女はじっと動かず、求めに応じようともしない、
いささか首をかたくし、おし黙って。
彼が眺めるままにさせて、このひとに何が見えるものか、
めくらも同然なのだから。男はわからなかった。
だがついに気がついてつぶやいた、「ああ、そうだったのか」そしてまた、
 「そうだったのか」
 
「なんなの―なんなのさ?」と妻はきいた。
 
「あれが見えるんだよ」
 
「見えるもんですか」彼女は食ってかかった,「なんだか言ってごらんなさい」
 
「どうしてこれがすぐわからなかったんだろうなあ。」
これまで一度も気がつかなかった。
おれは慣(な)れきっているんだ―そのためなんだよ。
おじいさんたちを埋めてある、あの小さな墓地!
家の中にすっかりおさまってしまうほど小さい、
寝室ぐらいの広さしかないんだろう。
三つの平石(ひらいし)と一つの大理石、
角ばった小さな石板(いしいた)があそこの
丘の斜面で陽(ひ)の中に光っているね。あんなもの、気にすることないんだ。
だがわかったよ。あの石じゃない、
あの児(こ)が埋まっている土まんじゅう――」
 
「やめて、やめて、やめて、もう」と妻は叫んだ。
 
彼女は手すりにかけた夫の手の下から
(のが)れるようにすり抜けると、素早く降りていった。
そしてきっとなった表情でこちらを見たので、
夫は思わず知らず、二度くり返して言った。
「父親が自分の亡(な)くした子供のことを話して、どこが悪いんだ?」
 
「あんたにそんなことが!あ、わたしの帽子は?いえ、帽子なんかいらない!
わたし、外へ出なくちゃ。外の空気にあたってくるわ。
男のひとに子供のことを口にする資格なんかありゃしない」
 
「エイミー、いま他人のところに行くんじゃないぞ、
おれの言うことをよくおきき。おれはこの階段を降りないぞ」
彼は坐りこんで、頬杖をついている。
「おまえに頼みたいことが一つあるんだよ」
 
「あんたは頼みかたさえ知らないじゃありませんか」
 
「それじゃあ、教えてくれ」
答えはなくて、彼女はただ掛金をいじっている。
 
「おれが何か言うと、いつもおまえを怒(おこ)らせてしまう。
おまえが気に入るように、どうして話したらよいか、
おれにはわからないんだよ。だが教えてくれるなら、
できるだろうと思う。どうしたらということがわからないんだ。
女とうまくやっていくには、男は半分ばかり
女にならなければいけないらしい。おれたちは何か話し合いで決められるよ。
それでおまえに触れてもらいたくない特別のことがあれば
いっさい触れないように気をつけよう。
とはいっても愛し合っている仲で、こういうことはどうも水くさいがね。
愛していない二人ならば、そういう取り決めがないといっしょに暮らしていけない。
だが愛している同士だったら、取決めなどしてやっていくことはできまい」
妻は掛金をはずしかかった。「おい、行くな―行っちゃいけない。
いまおれをさしおいて、他人のところへぐちを言いに行っちゃいかん。
人間に関したことなら、おれに話してくれ。
おまえの悲しみの仲間入りをさせてくれ。おれは他人とそんなに違っていはしないよ。
おまえが寄せつけないから、おれのほうで入っていけないんだ。おれにも話させてくれ。
だがおまえも少し度をこしているんだよ。
初めての子供を亡くした母親の悲しみを
そんなに深く考えて、いつまでもあきらめられないことにしているのは
いったいどういうわけだろう―おまえを愛しているものがここにいるのに。
あの児の思い出はなんとかすれば慰められるとでも思うのか――」
 
「ほら、皮肉に笑っているじゃないの!」
 
「いや、そんなことあるもんか、とんでもない!
おれは怒るぞ。いまそこへ降りていく。
全く、なんという女だ!つまり、おまえはな、
父親が自分の死んだ子供の話をしちゃいけないというのか」
 
「そうですとも、あんたはそういう話しかたもわかっていないじゃないの。
少しでも思いやりがあるならば、その手で―あの小さな墓を
掘ったあんたは―どうしてあんなことができるんでしょう?
わたしはあの窓からあんたを見ていたんですよ、
砂利まじりの土をぽんぽんと、
ぽんぽんとさも軽そうに、空へ撥ねあげていたわね、
そして穴のそばに出来た小山から、土がころがり落ちていたのよ。
わたしは思ったのよ、あの男はだれだろう?そういうあんたは見も知らぬ他人だったわ。
わたしはいたたまれず、階段を上ったり降りたりして、
また眺めたのよ、それでもなおあんたのシャベルはふり上げられていたわ。
それからあんたは家に入っていったのよ。台所のところで低くこもった声が聞こえたので、
わたしはなぜか、自分の眼で
確かめたくなって、そこへ行ったのよ。
そのときのあんたときたら、自分の赤ん坊の墓の
生々しい土を靴につけたまま、平気で坐っているじゃないの、
そして世間話をしていたじゃありませんか。
あのシャベルを戸口の外の壁に立てかけたままで、
わたしはちゃんそれを見たのよ」
 
「なんだって、おもしろくもねえ話だ、
くそっ、そんな馬鹿なことあるもんか」
 
「あんたが言ったことばをそのまま言えるわよ。
『三日間霧がおりて、それから一日雨がふれば
いくらうまく出来た樺(かば)の木の垣根だって腐っちまうよ』って。
まあ、ああいうときに、よくもあんなことが言えたものね!
樺の木がどのくらいで腐るなんていうことと
暗くした部屋においた子供の体とどういう関係があるの。
あんたって、そういうこともわからないんだわ!生きている者は
一番近くにいる友だちだって、死人のことはわからないんですよ、
いっそわかろうとしないほうがいいくらいだわ。
そう、ひとは病気になって死ぬまで
ただひとりぼっちよ、まして死ぬときは。
友だちだって墓まで随(つ)いていくような振りはするけれども、
死人が墓の中に入らないうちに、そういう人々の心はもうそこになく、
人生と生きている人々と自分の理解しているものへ
なるべく早く戻りたいと思っているんだわ。
この世はいやのものね。もし自分で変えることができるのなら、
わたしもこんなに悲しまないですむのに。
ああ、いやだ、わたしはいやだ!」
 
「それでおまえは自分の言いたいことを全部言ってしまったから、気が楽になったろう。
おまえはもう出かけないだろうね。泣いているな。戸をおしめ。
すっかり話してしまったんだ、意地を張ることもないだろう。
エイミー!だれかこっちへ道を歩いてくるよ!」
 
「あんたって―ただ話せばそれですむと思っているのね。わたし、出かけるわ―
とにかく、この家からは。どうしたってだめなのよ、あんたになんか――」
 
「おい、出かけてみろ!」女は戸をあけかえていた。
「どこへ行くというんだ!まずそれからきこう。
おれはあとから追いかけて、腕ずくでも連れもどすぞ。うん、やるとも!」
         (安藤訳、前掲書 137-46頁)
 
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これで1920年代、1930年代と活躍した、いわゆるモダニズム詩人たちについては終わりにします(以前パウンドの講義で言及した高島誠の本にあったe.e.カミングズやマリアン・ムーア、ガートルード・スタイン、H・D、カール・サンドバーグ、エイミィ・ロウエル、ミナ・ロイ、さらにはハート・クレインといった他のモダニスト詩人については残念ながら省略します)。次回からは一講義一人というペースでは今日まで到達できませんので、大まかな流派の代表的詩人たちをまとめて扱うことにします(次回は1950年代以降に顕著となった告白詩です)。