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ことばの科学研究会・設立趣意書

 およそ40年前、生得的な言語能力の存在が示唆されて以来、言語研究は言語の組織を明らかにする研究から、人の言語能力がどのように作動して、多様で有意な無限の発話を生成し、理解し得るのかを明らかにしようとする研究に焦点を移してきた。換言すれば、言語を構成する有限の要素を操作して、無限の文を生成し、また、これを理解せしむるアルゴリズムの解明を科学的手法で行おうとする研究が脚光を浴びたのである。最近さらに、この言語研究は、従来の言語学の枠を越えて、心理学、神経学、生理学、情報科学の知見を取り入れた学際的色彩を帯びながら、ようやく大きな前進の兆しを見せ始めた。

 我々は、世界のこの動向に棹さして、運用言語を演出する人間の認知機構のダイナミズムの解明に取り組む学際的研究グループが、わが国にも存在する必要を痛感し、ここに、「ことばの科学研究会」を設立する。具体的には、ことばの獲得、習得、知覚、認識、生成のメカニズムを、これと関連する一般的な認知機構とともに、学際的に、科学的に追求しようとするのである。学際的にとは、関連するすべての知見、学問領域を考慮していくという姿勢であり、科学的にとは、客観的データに基づく手堅い論証を心がけ、研究にimpersonalでcumulativeな性格を持たせることによって、斬界の発展に寄与しようというのである。

 一方、我々は、ことばに関わる応用的、実践的活動にも、積極的に貢献したいと願っている。例を外国語教育に取ろう。一般に、外国語教師の仕事は、三種類の作業に大きく分けることができるといわれる。一つは、教師が教壇で行う教育活動で、一般にtechniqueと呼ばれる。いわゆる、授業がこれである。他は、教師が教室に入る前に行う教育活動で、methodと呼ばれ、教材や教科書の作成がこれにあたる。最後に、approachと呼ばれる段階がくる。これは、個々の教師の言語観や言語習得の方法についての信念である、といわれている。この三種類の仕事は階層構造をなしており、techniqueはmethodに、methodはapproachに規制されるという性格を持っている。外国語教育研究では、この3つのレベルの各々で科学的な研究が行われるべきであるのに、日本では、techniqueやmethod面の研究に比して、approach面での研究が著しく少ないのが現実である。ほとんど無いといっても過言ではない。確かに、いわゆる文法研究の類は多い。しかし、これは如何なる授業が一番効果的かという、外国語教育研究が本来取り組むべき課題には、ほとんど答えることができない。 すなわち、従来のわが国の語学研究をそのままの形で、外国語教育研究の一番深いところにあるapproach上の位置に据えることには無理があるのである。ここでは、我々が目指している、ことばを理解し、生成し、獲得するメカニズムの研究こそが必要であるのに、わが国の外国語教育の研究者と自認する人たちは、この困難だが重要な分野に敢えて挑もうとはしなかった。残念ながらこれが、彼らの研究にしばしば見られる実証性の欠如と共に、わが国の外国語教育研究を空転させることになってしまった。たとえ、教授技術面で精繊な工夫が凝らされても、これを支えることができなかったのである。

 顧みれば、我々の研究会は、当初、「英語教育研究グループ」と称し、20有余年間、常に外国語教育の改善を念頭において研究してきた。そして、最後にたどりついたのが、先述の言語獲得と生成、認識などのメカニズム研究である。これを基礎にして、techniqueとmethodの研究を合わせて行って初めて、外国語教育研究は一貫性のある一つの独立した学術体系を構築し得るのである。この努力があって初めて、外国の研究者と互して国際的レベルで研究することができ、わが国の教育実践は着実に成果をあげる道が開けるのである。もちろん、外国語教育は、これ以外にさまざまな問題を抱えており、それらの研究は必要だが、上記の研究が中核になることに疑いの余地はない。

 また、我々は単に外国語教育のみならず、これと同じ様な階層構造を示す言語治療や、近年、大脳による情報処理過程をモデルに研究を進めている情報科学の分野にも、貢献ができると考えている。

 我々が上記のような研究会を発足せしめるのは、我々には、すでにある程度の研究上の財産があってのことである。例えば、Aの言語で解明された現象(例えば、listeningのメカニズム)が、Bの言語にもそのまま当てはまるのかという問題、特に、Aが母語でBがそれ以外の言語である場合はどうか、という問題がある。これについて、我々のこれまでの研究はlanguage specificな現象はuniversalなそして多くの場合innateな言語認知形式の異形として捉えることができるという可能性を示唆している。つまり、language specificな現象は全く異なる、互いに無関係な2つ(以上)の現象ではなく、実は人間が生得的に持っている一つの認知形式が形を変えたものであるというのである。例えば、bi(multi)lingualの存在は、この考えの正しさを示唆しているが、もう少しはっきりとした具体例をあげてみよう。

 Stress-timed, syllable-timedという世界の言語のリズム型は、互いに独立した並列的なものではなく、人間が生まれながらにして持っているholisticでgestalt的なリズム知覚と、analyticなリズム知覚が、言語毎に異なる音節の構造の差という現実にぶつかって、その表出法を変えた現象にすぎないという確かな証拠がある。ここで大切なのは、この2つの性格の違いとともに、客観的に示し得ることである。そして、このことが実証されると、単に世界の言語のアクセント型の説明だけではなく、listeningの過程の中で、この2つのリズム知覚がechoic memoryや中心的情報分析段階で果たす役割についても説明することができ、listeningのメカニズムの解明が1つ大きく前進することになったという事実である。

 以上に述べてきた研究を中核にしつつも、我々は人間のコミュニケーションの種々相を常に視野の中に入れて行きたいと考えている。「ことばの鎖」「感性情報の伝達」「コミュニケーションにおける場面の役割」「異文化間コミュニケーション」などは、我々の研究と深い関係にある。聞き手が、話し手の発話の意図を、その裏の意味も含めて、理解し、話し手と交わす会話のメカニズムは、むしろ、我々の研究の延長線上にある。文脈や場面、文化などの要因は言葉のやり取りにどんな影響を及ぼすのか、さらに、異なる文化を背負った人々の間のコミュニケーションの様態とその心理言語学的意味を、社会言語学的要因とからめて、探ることなどは我々にとって魅力ある研究領域である。

 いずれにせよ、我々は以上のような視点に立つことによって、世界的な視野のもとに、研究を進めることができるのである。これが、わが国の言語研究を世界に向けて発出する突破口になり得ると我々は考えている。このような希望をもって、我々は「ことばの科学研究会」を設立する。

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ホームページ委員:中西弘